生成AIと共に育つこれからの若者たちはこの小説の違いと同じになりかねないのです。大人になって一人前のことを言う、それなりに知識もある、だけど全部、実感が伴わないというパタンです。なぜか、といえば経験もしていないし、その内容について誰かと深いディスカッションをしたわけでもないからです。
例えば私がブログを書けばたくさんのコメントを頂戴します。それは考え方の違いでもあるし、焦点の当て方の違いでもあります。私がAと言ったら「違うね、Bだよ」と指摘を受けるのはもちろん私が外している時も大いにあるのですが、立ち位置や視点が違うことも多いからなのです。つまり答えは一つではない、ということを改めて理解できるわけです。
ところが日本の教育は答えが一つという前提でしたのでコメントでも当然、「君それは外しているよ」と大胆に切り捨てられるわけです。理数系はともかく社会科学ではその解はいくらでもあるのです。その人が何処を重要と考えるのか、それ次第なのです。なので私がよほどのことでない限り「それは違うね」と反論もしないのは素直に「それもあるよね」と受け入れるのです。ハーバード大学のマイケル サンデル教授も学生から考えを絞り出させる方式を取っています。生徒は黒板と先生と対峙する時代ではないのです。
日本には大学が800程度あります。そして大学でも受動的な「教わる」なんです。そうじゃない、能動的に「共に考える」に転換すべきだろうと思います。まさに大学ゼミでやっているようなスタイルをもう少し水平展開できればよいのでしょうね。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年1月24日の記事より転載させていただきました。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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