渡辺は大野伴睦の番記者になり、1950年代以降の自民党の人事にもかかわるようになった。彼は「書ける記者」だったので、自民党議員の政策を代筆することも多かった。社内では務台派と小林派の抗争の中で左遷されたり辞表を出したりするが、巧みに生き残り、実権を握ったあとは「社会部帝国主義」だった編集局に介入した。
どこの新聞でも(NHKでも)スターは社会部である。政治部のニュースは政局ものが多く、政策もほとんどの読者にはわからない。それに比べて事件・事故は誰でもわかり、話題になりやすい。だから社会部が政治家のスキャンダルを追及するのを「おさえる」ことで政権に恩を売るのが、政治部の大事な仕事だった。
当時、渡辺と並び称せられたのは、朝日新聞の三浦甲子二とNHKの島桂次だった。三浦は田中角栄に食い込んでテレビ朝日をつくったが、田中の失脚で政治的な後ろ盾を失い、モスクワ・オリンピック独占中継の失敗で失脚した。島は宏池会を取り仕切る大物派閥記者だったが、海老沢勝二と対立してスキャンダルを暴露されて失脚した。
読売がはっきり自民党寄りのスタンスを取るようになったのは、渡辺が論説委員長になった1980年代以降である。これは社内で異論も多かったが、渡辺は中曽根首相など政権中枢との関係を利用し、ライバルを蹴落とした。それが可能だったのも、渡辺が自民党内の派閥力学を読み、それに迎合する路線を取ったためだろう。
とはいえ渡辺が自民党に提案した政策はそれほどおかしなものではなく、憲法改正、小選挙区制、間接税の創設、行政改革など常識的なものだった。それを実現する手段として派閥力学を利用するのが彼のマキャベリズムだったのかもしれない。