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大学統合・再編の現状と課題

大学の生き残りをかけた統合・再編をめぐる動きが活発である。私がかつて勤務していた大学でも、この問題でかなり長い間、揺れ動いている。

当初「合意」されたはずの協定に対して反対の声が大きくなり、統合推進派の学長が慎重派に交代すると共に、風向きが変わってきた。今後の展開がどうなるか、予断を許さない状況がもうしばらく続くだろう。何しろ、私が定年退官した20年3月には「ほぼ決まり」となっていた統合・再編案が、3年半後の今も暗礁に乗り上げているのだから。

なぜ暗礁に乗り上げたかと言えば、当初の再編案に無理があったからだと私は見ている。6学部あった総合大学と単科大学が統合する際に、前者はA地区に4学部、B地区に2学部有していたのを、B地区2学部と単科大学を統合してA・B2大学にする案だったからだ。

しかしA地区の4学部を1大学にしても、単に学部数が減って規模縮小のデメリットしか残らない。当然、A地区から猛然と反対論が興り、結局学長が替わってから、統合後は全部併せて1大学とする案に変更された。そうなると、単科大学からは単に「吸収合併」にしか見えないので、この案は受け入れがたい。だから「暗礁」なのだ。この両案はどうにも両立しないから、どちらかが折れるか破談になる他に解決策は思い浮かばない。さてこの後どうなるか・・?

しかし実は、私の関心事は統合・再編の行方ではない。この話の進め方に違和感があるのだ。いや、この話に限らず、全国で進められている大学の統合・再編に関しては、主要問題は組織をどうまとめるかが主題になっていて、どんな教育をしてどんな学生を育てるかに関しては、ほとんど議論されていない、少なくとも外部には聞こえてこない、と言う点に問題を感じるのだ。なぜなら、大学は、本来的に高等「教育機関」であるから。

例えば、上記の例で言えば、B地区では統合後の「医工連携」のメリットが強調された。しかし研究面ではそう言えるとしても、教育面では、工学と医学では学問の基礎地盤が異なる。工学の中でさえ、機械・電気・化学・土木では基礎教育が違う。それぞれの学問的基盤が異なるからだ。いくら医工連携でも、工学部で解剖実習をやる所は出てこないはずだが、医学部では必須である。つまり、研究段階では多分野総合が必要でも、基礎教育段階では明確な区分けが要る。

私の考えでは、文理を問わず、学問領域として基礎の明確な分野は、少なくとも教育は統合させない方が良いと思う。それぞれの学問領域で、最初の方法論や基礎知識のあり方がキチンと定まっているからだ。それは恣意的なものではなく、長い歴史の積み重ねの中で確立されてきたものなので、容易には改変できない。言わば「不易」に相当する部分である。教育の基礎部分は、まずこの「不易」の部分を学生に叩き込むことに集中すべきだと考える。

基礎が出来上がれば、研究領域でなら分野の垣根を越えて、必要に応じていくらでも学際的な取り組みを行えば良い。しかし基礎段階でこれをやると、学生は自分のよって立つ基盤が分からず、途中で途方に暮れる事態に陥る可能性が高い。

教育の本質とは何か

それにしても、長年教育機関に勤務していてつくづく思うのは、一種の「教育のパラドックス」である。つまり、教育は大切なんだけど、教育だけで人は育たないし逆効果の場合さえもあること。よくある「教育不要論」は、大体この辺をついている。

例えば、私が愛読している本の著者たち〜井筒俊彦、堀田善衛、加藤周一、柄谷行人など〜の経歴等を見ても、彼らはほとんど独力で自分の世界を切り開いた知識人で、誰かから教え導かれたとの形跡は見られない。史上多くの天才やノーベル賞受賞者も同様で、彼らの仕事は「教育」で養われたものではない。つまり、この種の非常に優れた頭脳を、何らかの教育プログラムで養成することは恐らく無理なのだ。

今流行の「ギフテッド児」教育などにも、私はあまり期待していない。放っておいても伸びる子は伸びるから、下手に手を加えない方が良いとさえ思っている。むろん、伸びる可能性を摘み取るような「指導」など、あってはならないが。

しかし一方で、それでも「教育」は大切なのだ。素養としての、あるいは必要条件としての教育が。