世代的に考えると『批評空間』(1991~2002年)の影響があるのが普通なのに、あんまないんですよね。だから『平成史』を書くときも、同誌をほぼ同時期に始まったゴー宣と並べたりとか、たぶん批評家の常識とは違うことをしている。
僕の場合「批評を書くぞ!」という意識で文章を書くことがほぼなく、書かれたものが「批評になっているか」は読者が決めてくれたらという姿勢でやっています。じゃあお前はなにを書いとるんじゃい、というと、うーん……なんらかの切り口から見えてくる「社会の断面」であり、その連なりとしての「歴史の文脈」なのかなと。
なので、世代的にも実物はほぼ読んでないけど(汗)、むしろシンパシーを感じるのは『思想の科学』(1946~96年)だったりします。同誌に編集者として関わった佐藤忠男(映画評論)や加藤典洋(文芸評論)の影響の方が、『批評空間』の柄谷行人・浅田彰・蓮實重彦……といった批評家たちより強いところがある。アナクロですが。
③ NewsPicks の動画インタビューシリーズ「ダイアローグ」に出演させていただきました! テーマはずばり、令和論です。リンクはこちら。
NewsPicks といえばニュービジネスのネットメディアですが、なにせアナクロなもので歴史の話、それも堀田善衛『インドで考えたこと』に見える歴史哲学についてお話ししたりしました(笑)。原著はなんと1957年、映画の『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台の前年ですね。
なんでそんなド古書が出て来るかというと、たとえばこんな一節が、「令和の日本」との対比で気になったんですよ。
この〔多民族・多言語・多宗教の〕バラバラでメチャメチャな現実を統一しているものは、結局、民族独立、経済建設、民衆の仕合せ、つまりインドの未来がインドを統一しているのである。 インドやこのあたりの国々を新興国であるとするなら、新興国とは何かといえば、それはその国の過去というよりも、むしろ未来がその国の存在を保証している国ということになるだろう。 古い国、歴史の国というよりも、存在理由は、実は未来の歴史にこそあるということが、来てみてはじめてしみじみとわかった。
107-8頁(強調は原文傍点) 改行は今回附しました
4月にもNewsPicks の取材記事でお答えしたように、歴史をすっかり忘れた令和の日本では、過去ではなく未来を共有する形でしか(たとえば「20××年問題」)、国民が共通の意識を持てなくなっている。その意味で私たちは、奇妙なことですが冷戦下の新興国に似た社会を生きている。
居心地が悪いのは、新興国が掲げる未来では国民は「統合」に向かうはずなんですよね。ところが老衰国である令和の日本では、むしろ未来が「分断」を煽るために使われている。「AIで不要になる仕事、ならない仕事」「SDGsで推すビジネス、叩くビジネス」とかですね。
そうした不思議な、というか「感じの悪い新興国化」が進む時代を、まともに生きてゆくヒントはなにか? インタビュアーの泉秀一さんとともに考えています。(有料で恐縮ながら)多くの方にご視聴いただければ幸いです!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年6月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。