小学校時代、給食が楽しみで学校に通っていた人も多いと思います。
そんな学校給食ですが、果たしていつ誕生したのでしょうか?
本記事では給食が日本においていつ頃から始まったのかについて紹介しつつ、それぞれの時代でどのような役割を持っていたのかについて取り上げていきます。
なおこの研究は旭川大学短期大学部紀要51号p. 25-39に詳細が書かれています。
最初の給食はおにぎりと煮物と干物
日本国内における最初の学校給食は、1889年に山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)の大督寺内にあった忠愛小学校で始まったとされます。
当初の目的は、貧困家庭の子どもたちを支援することであり、費用は地域の僧侶の寄付によって賄われたのです。
献立はシンプルで、白米の握り飯2つに煮浸し(青菜漬けの塩出しをしたものに大豆などを加えた煮物)と塩魚の干物などだったのです。
やがて時代が進んで大正時代になると、義務教育の普及に伴って、従来では学校に通うことのなかった貧しい子どもたちも学校に通うようになりました。
そのようなこともあって、貧しい子どもたちが食べるための給食需要がますます高まったのです。
1931年に満州事変が勃発して軍国主義の時代になると、児童の健康と体力の向上が更に重要視されるようになりました。
そのため、国庫補助による貧困児童支援の学校給食制度が1932年に導入されたのです。
当時は大凶作や世界恐慌の影響で貧困が深刻化し、全国的に満足に食事を取ることのできない子供が増えたことが問題となっていました。
しかし児童全員に給食が支給されていたわけではなく、貧しい一部の子どもだけに給食が支給されており、それ故学校の現場では給食を支給している子どもたちが恥ずかしい思いをすることなく利用できるような配慮をしていました。
1941年には太平洋戦争に突入したことによって食糧不足はますます進み、国民学校と改称された小学校では食糧不足が深刻化していました。
またただでさえ少ない給食が学童疎開や生活物資の統制によって中止されることもあり、子どもたちは常に空腹と戦っていたのです。
戦後の混乱期に復活するも、廃止の危機に見舞われた給食
やがて1945年のポツダム宣言受諾により、戦争は終結したものの、日本は引き続き深刻な食糧難に見舞われていました。
餓死者や子どもの犯罪が増加し、国民生活は荒廃し、児童の成長状況も悪化していたのです。
1946年には米国のアジア救済公認団体ララから援助物資が提供され、学校給食の再開の目途が立ちました。
文部省(現在の文部科学省の前身)、厚生省(現在の厚生労働省の前身)、農林省(現在の農林水産省の前身)は「学校給食実施の普及奨励について」という通達を出し、貧困や虚弱などの理由にかかわらず、国民学校の全児童を対象に給食を提供することを定めたのです。
1946年、東京、神奈川、千葉の三都県の小学生25万人を対象に給食が開始され、続いて都市部の小学校児童約300万人に対して援助物資を用いた給食が週に2回行われました。
やがて1948年には週5回に増加し、1949年からはユニセフからの脱脂粉乳の寄贈が受けられたのです。
1950年には米国からの小麦粉を使用した給食が始まり、同年末まで続けられました。
しかしながら、1951年には学校給食が存続の危機に瀕する状況となりました。
サンフランシスコ講和条約の締結によって、アメリカの占領地域救済政府資金による援助が終了したためです。
大蔵省と文部省・農林省の間で給食費用の負担に関する議論が巻き起こり、結果として負担が増加し、給食が中止される地域も生じました。
1951年には約3200校で給食が休止し、約200万人の児童が給食を受けられなくなったのです。
しかし1951年のルース台風や1953年の西日本風水害などといった大規模災害が発生し、日本国内に甚大な被害をもたらすと、潮流が変わります。
学校給食を作る場所が炊き出し拠点としての役割を果たすことが重要視され、学校給食の法制化と安定化の機運が高まったのです。