この決定に至る経緯について、誰が先に言い出したとか、こだわったのかという議論があって、とくに、保守系の人々はGHQの圧力という。

しかし、この時期のあらゆる決定と同じように、天皇制や昭和天皇本人の処遇すらどうなるか分からない中で、GHQの意向を忖度したり、先回りしたりして行動していたのであって、誰が先に言い出したかはさほど重要ではない。

華族制度も、昭和天皇は旧公家は守りたいと考えたし、一代限りはそのままという案もあった。それに対して、GHQが全般的に縮小を指向したのも間違いないし、維持したとしても経済的特権の維持は難しく、旧皇族でも拘泥しない人もいた。

ただ、昭和天皇は皇族親睦会に代わる菊栄親睦会の組織を指示し、皇籍離脱に際し、昭和天皇は「身を慎み、貴賓ある御生活をしていただきたい。できるだけの御補助は致すつもりである」などとし、引き続き皇室の藩屏としようとしたのは間違いない。

この廃止された11宮家は、いずれも幕末の伏見宮邦家親王の子孫である。伏見宮家は、北朝第3代崇光天皇の子・栄仁親王によって創設された。その後、男系で断絶することなく継続していたのである。

ほかの宮家に比べると現皇室から縁遠いが、それは、運が良かったと言うだけのことだ。ただし、女系では現皇室との縁組みを繰り返し、北白川、朝香、竹田、東久邇は明治天皇の、東久邇はそれに加えて昭和天皇の長女の子孫であるから、正統性は高い。

古来、男系男子は必要条件だが、女系での近さは人選の重要な要素として重要視されてきたからである。

新刊では、各宮家について詳細を紹介している。