だから、この時点では豊臣大名と徳川大名は別の性格を持っていた。関ヶ原以前の領地は、だいたい、武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野だった。
関ヶ原後は、ここに関東移封以前の領地である、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐が戻され、さらに、尾張、美濃、近江、下野や常陸の大部分、それに磐城平が、譜代大名に与えられた。だから、これらが徳川家の加増分とみることができる。
福井の結城秀康は、家康の子でも、身分上は秀吉の養子で豊臣大名であるから、カウント外だ。
家康はこの配置で、白河の関から逢坂の関までを抑えたわけである。つまり、天下をとったというよりは、自分が死んでも東日本は徳川のものとして確保することに重点があったように見える。
それが、時間がたつにつれて、豊臣と対等に二重公儀制といわれる体制に移行し、さらに、豊臣を一大名としかねないことになったので、豊臣が反発して大坂の陣になったわけである。
豊臣と徳川の共存というのは、ありえなくもなかった。とくに、秀頼と千姫に子どもが生まれていたら、いろんな妥協案があり得たはずだ。豊臣が関白で徳川が将軍など、いろいろありえた。
家康が将軍になるときに、公家の間では秀頼が同時に関白になるのではという噂が流れたくらいで、当時の公家の頭ではあり得るということだったのだ。
※ 本記事の内容は、『47都道府県の関ヶ原』(講談社+α新書)、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)に詳しい。
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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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