その5:日本が誇る剣聖「塚原卜伝」
日本が誇る最強の剣士の一人といえば、塚原卜伝(ぼくでん)です。
卜伝は1489年に茨城県の鹿島市に生まれ、幼い頃から実父のもとで鹿島古流を、義父のもとでは天真正伝香取神道流を学びました。
17歳になった卜伝は家を出て、他の浪人や剣士と対決し、自分の剣術を磨くようになります。
卜伝は数十回の真剣勝負と合戦への参加を経て、少なくとも200人以上を斬ったという。
そして「幾度もの真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により、後の世に”剣聖”と謳われるようになりました。
剣豪として知られる室町幕府13代将軍「足利義輝(あしかがよしてる)」も卜伝に師事して剣を学んだと伝えられています。
ところが卜伝は歳を重ねるにつれ、己の力を誇示したいとの気持ちがなくなり、平和主義に傾いていきました。
彼の有名な逸話に次のようなものが残っています。
ある日、老いた卜伝は琵琶湖の船中で、年若い剣士と乗り合いになった。
相手が卜伝だと気づいた剣士は決闘を挑んでくるが、卜伝は取り合わない。
しかし、血気にはやる剣士は「逃げるな、臆病者!」とばかりに卜伝を挑発し、罵倒する。
卜伝は周囲に迷惑がかかることを気にし、決闘を承諾して、剣士と2人、小舟に移り乗る。
近くの川辺に着き、剣士が船から飛び降りた途端、卜伝はそのまま小舟を漕ぎ出し、岸を離れていった。
喚き散らす剣士を横目に卜伝は、「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と笑いながら去っていったという。
卜伝は1571年に、83歳で亡くなっています。
その6:貴族のおてんば女剣士「ジュリー・ドービニー」
偉大な剣士はすべて男性というわけではありません。歴史の中には女性の剣の達人もいました。
その一人が、17世紀のフランスで名を馳せたジュリー・ドービニーです。
ジュリーは1673年、ルイ14世に仕える宮廷貴族の娘として生を受けました。
非常にやんちゃでエネルギッシュな性格だったらしく、幼い頃からフェンシングに熱中して、訓練を受けていたといいます。
ジュリーは10代半ばで結婚しますが、夫には何の愛情も抱いておらず、すぐに逃亡。
家を飛び出して、フェンシングの名手と関係を持つようになりました。
ジュリーは彼から剣術を教わるかたわら、居酒屋で男性と決闘したり、剣術のお披露目会を開いて生計を立てます。
また彼女は優れた美声の持ち主でもあり、まったく訓練を受けていないにもかかわらず、歌の才能を発揮して、オペラ歌手としても活躍しました。
決闘の合間を縫っては「マドモアゼル・ド・モーパン」という芸名でステージに立っていたという。
ジュリーは世間に対して反抗的であることを常に楽しんでいました。
最も有名な事件は1695年に起こったものです。
仮面舞踏会に出席したジュリーは、客人たちの顰蹙(ひんしゅく)を買おうと、大胆にも皆の前で若い女性に突然口づけをしました。
(彼女はバイセクシュアルだったという説もある)
その娘には3人の求婚者がおり、激怒した彼らは女性の名誉を守ろうとジュリーに決闘を申し込みました。
そして、ジュリーは完膚なきまでに3人の男たちを打ち負かしたという。
しかし、ジュリーは早いうちにエネルギーを使い果たしてしまったのか、その後フェンシングもオペラもやめてしまい、1707年に33歳の若さで亡くなるまで、修道院で過ごしたといいます。
その7:60戦無敗の剣豪「宮本武蔵」
やはり、歴史に名を残す伝説の剣豪として、この人を抜くわけにはいきません。
宮本武蔵は1584年に播磨国(現在の兵庫県)で生まれた、日本史上最も有名な剣士です。
父については諸説ありますが、少年期から剣の達人・新免無二(しんめんむに)を父として(養父の説も)剣術を習いました。
13歳にして初めて名のある剣士と勝負をし、勝利を収めたと言われています。
しかし、新免無二とはことあるごとに衝突する関係だったらしく、やがて実家を飛び出し、武者修行をしながら名を上げていきました。
合戦にもたびたび参加し、関ヶ原の戦い(1600)や大坂夏の陣(1625)にも居合わせたようですが、手柄は分かっていません。
しかし、13歳から29歳までに60余の決闘を行い、すべてに勝利したという伝説が残っています。
最後の試合とされる剣豪・佐々木小次郎との「巌流島の決闘」(1612)は誰もが耳にしたことがあるでしょう。
その後は一線から退き、ひたすら剣の道や兵法の追求に邁進し、晩年に自らの剣術の奥義をまとめた『五輪書』を執筆し、これを弟子に譲って、1645年にこの世を去りました。
ただ、武蔵に関する逸話はどこまでが本当でどこからが創作かよく分からず、吉川英治の小説『宮本武蔵』で描かれたイメージが、現在に伝わる武蔵の剣豪像の多くを形作っていると言われています。
昭和の初めにも、武蔵は本当に強いのかという論争がありました。このとき武蔵擁護に回った小説家、菊池寛は「彼の絵を見てみろ、口だけの男があれほどの絵を描けるものか」と語ったそうです。
彼は晩年「二天」という画号を称して、五輪書の執筆とともに数々の絵を残しました。
中でも有名な作品に「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」があります。この絵はよく見ると枯れ木の中ほどにイモムシが描かれているのがわかります。
目の前しか見えず必死に上を目指して這い登るイモムシと、すべてを見通して高みに止まるモズ。静かな秋の風景ですが、一瞬先に起こる虫の運命を考えると、そこには均衡が破られる前の張り詰めた空気を感じます。
ここには武蔵の生きた人生の思想が描かれていると言われます。
水墨画は時間を掛けず、ほんの数分でさっと線を引いて描かれる絵です。
武を極めんとした武蔵の気迫はここからも伝わるでしょう。
そういう意味でも武蔵は「伝説の剣豪」の名にふさわしい人物なのです。
参考文献
7 of The Most Skilled Sword Fighters in History