ダイヤモンド・オンラインで『【どうする家康】「教育ママ」茶々はなぜ負けた?家康が「豊臣滅亡すべし」と決意した瞬間』という記事を出した。

北川景子の演じる茶々の、あざといまでの凄みがNHK大河ドラマ『どうする家康』で好評だ。母であるお市の方と二役だが、お市の方としては、本当は家康と結婚したかったという無理な設定もあり、戦国きっての美女として適役というだけで終わっていた。

だが、秀吉の側室・茶々として再登場するや、北ノ庄での母との別れのときに「私が天下を取る」と約束した怖い戦国の女性を見事に演じている。

第45回「二人のプリンス」よりNHK「家康ギャラリー」

この北川景子が先日、滋賀県でイベントに出て滋賀県に親戚がいるといって県民を喜ばしていたが、聞くところによると、祖父が彦根市出身で大阪で医師をして、その子(北川の父)が神戸で三菱重工業の幹部技術社になったということらしい。

その北川景子が長浜市(小谷城)出身の茶々を演じているのは滋賀県民としてはうれしい。ちなみに、かつて寧々を演じた沢口靖子も父親が彦根市出身。意外にも日本を代表する美人女優二人を輩出しているわけだ。

例によって記事の内容はリンクから見て欲しいが、ぜひ、知っておいて頂きたいのは、秀吉は晩年耄碌して不人気だったというNHK大河ドラマの大嘘に反して、秀吉は死ぬまでどころか死んでも大人気で、家康は嫌われていたということだ。

京で秀吉の七回忌に豊国神社の臨時祭が開催されたが、都が始まって以来といわれるにぎわいとなり、京の民衆に秀吉がいまだ慕われていることを家康に見せつけることになった。

大河ドラマでは、秀吉が「秀次切腹事件」などの晩年の「暴虐」や、朝鮮の役などで嫌われていたと描かれているが、これは真っ赤なうそである。応仁の乱で荒れた京を復興し、朝廷の威信を回復し、平安建都以来の大改造を施して近世都市としてよみがえらせてくれた恩人に対する当然の評価だった。それに対して、徳川政権の政治の嫌われぶりは明らかだった。

1611年には秀頼が、秀吉が亡くなってから初めて上洛し、二条城で徳川家康と会談した。後陽成天皇から後水尾天皇への譲位の機会に5年ぶりに家康が上洛してきたので、一度会いたいということだった。茶々は、このときも、秀頼の身の安全を心配して嫌がったが、加藤清正らが勧め、占いでも「吉」と出たので、しぶしぶ承諾した。