1971年:銀の匙、空の皿
1970年代は総じて、デトロイトのショールームに今年はどんな魅惑の新車が顔をそろえるのか、という期待が薄れた時代だった。スーパーカー/マッスルカーの熱狂もまた過ぎ去りし1960年代のもの、そんな空気が確実に市場を覆いはじめ、1971年時点の実車販売台数にもそれは露骨にあらわれた。
ハイパフォーマンス・マシンの飽くなきパワー競争は、ドラッグレーシングやストックカーレーシングといった競技の隆盛と発展を招いたと同時に、多くの若者たちの命と健康を危険にさらす奔流ともなって、マシンパワーと保険料は相競うがごとくはね上がり、アメリカ当局の車の安全への懸念はこれまでになく高まった。憂慮すべき状況があらたな法をつくり出し、愛好家に興奮と熱狂をうえつけた車はしだいに小さく、おとなしく、扱いやすいものへと変化していった。
1971年独特の状況はアニュアルキットの世界においても、ゼネラル・ミルズのシリアル・コングロマリット戦略に加わったことで資力を強化した「持てる者」MPCと、「持たざる者」となったamtらの状況をより鮮明に分かつこととなった。
1971年のamtアニュアルキットからは、年式表示そのものが消えてしまった。同時にキットの箱からは統一されたデザインフォーマットが失われ、イヤーモデルを示す品番「Y」ナンバーもいつのまにか廃止されてしまった。もはやamtはアニュアルキット・シリーズの独立した体裁を充分にととのえるだけのライセンスホルダーではなくなっていた。
他社との競合ライセンスも含むフォードとシボレー、条件付きでビュイック(同ディーラーで販売されていたオペルGTのみ)、これにジョーハンからの借り物であるAMCを加えたとしても、とても頭数は揃わない。
本連載第29回で取り上げた1969年の大規模懸賞キャンペーンの際、新旧を取り混ぜても「新製品」としてうち出せる数を多く揃えることにこだわったamt社長トム・ギャノンにとっては、アニュアルキット・ラインナップはもはや満を持して押し出すものではなく、むしろそれとわからぬよう覆い隠したくなるくらいの存在だった。
結果、1971年のamtアニュアルキットからは年式表示が取り除かれ、本連載第28回で詳述した「T」ナンバーを等しく与えられて、汎くカープラモのワン・オブ・ゼムとして小売の店頭を飾ることとなった。もはやamtにMPCとの対決の意志はなく、同社はむしろアニュアルキット/パッセンジャーカー以外のブルーオーシャンをみつけるための探索にいよいよ本腰を入れはじめた。
amtのこうした探索行が見出した一大鉱床にトラクター+セミトレーラーのビッグリグがあったことはすでに本連載第29回で紹介したとおりだが、これ以外にもamtはあらたな試みとして、ファイア・レスキューをテーマとしたキット群を一斉に発表して市場の反応をうかがった。
アメリカン・ラフランスの消防車3タイトル――ラダーチーフ(はしご車・品番T511)、カスタムポンパー(ポンプ車・品番T513)、エアロチーフ(屈折式プラットフォーム車・品番T514)、これにシェビー・バンをベースとした救急車(品番T516)を加えたラインナップだが、思わぬことにこの救急車が頭ひとつ抜けた好評につながった。
ことここに到るまで箱型のバンは、長らくアメリカンカープラモの世界では模型にならないセグメントとしてほったらかしの憂き目に遭っていた。1966年にIMCがキット化したリトルレッドワゴン(のちに金型転用によってダッジ・A100バンに生まれ変わる)という特殊な例外はあるにせよ、キャブ・オーバー・エンジンが前提のバンはホットロッド的な拡張性がどうしても低く、売り上げの伸びは望むべくもないと判断されるのが常だった。
シボレーのバンはちょうど1971年に典型的なキャブオーバー型であることを捨て、短いながらもボンネットのあるシャープなスタイリングに変更されたが、これをひとつの好機ととらえて、火災現場に欠かせない役者のひとつとしてキット化を指示したamt/トム・ギャノンの勘働きはさすがというほかなく、パッセンジャーカーでは毎年飽くことなく繰り返される細部のモデルチェンジに縁がないバンは、金型の後始末に苦慮してきたamtにとって絶好の「発見」となった。
シボレー・ファイア・レスキューは間を置かず翌年にはキャンパーを追加したミニ・モーターホーム(品番T517)へと装いを変え、さらなる好評をもって市場に迎えられた。以降1970年代を通じて手を替え品を替えたキット化が続けられ、歴史のゆくえを知る現在のわれわれが傍目八目で「バンの時代」と呼ぶこともある1970年代特有のアメリカンカープラモは、このように火災現場からのひょんなもらい火によって燃え上がったのだった。
マイルド&ワイルドだろ~
アニュアルキットのライセンスをほとんどカバーしていたMPCの1971年は順風そのものだった。MPCはこうした状況にあっても守勢に入ることをよしとせず、市場でMPCのコーポレート・アイデンティティーと認識されつつあったダイアゴナル・デザイン(社名ロゴにもこのデザインは盛り込まれている)のボックスアートをさっぱりと捨て去り、大胆な仕様を製品にどんどん盛り込んでいった。
まずMPCのライセンス状況の変化についてまとめておこう。1971年、独立したビッグネームとしてこれまで最大級の売れ筋にあったポンティアックGTOが最後の年を迎え、翌年にはルマン・シリーズのオプションとなってしまった。ジャッジ・オプションもまた1971年を最後に翌年廃止された。この状況はポンティアックのジョン・デロリアンも苦々しく分析していたとおり、廉価なプリマス・ロードランナーが市場に生じさせた捲土によるものだった。
こうした状況を迎えてなおMPCの手腕が際立っていたのは、ロードランナーを含むプリマスの幅広いライセンスをこのときすでにジョーハンの手からもぎ取っていたことだった。ロードランナー、バラクーダ、それにダスターは、ダッジ・チャージャー、チャレンジャーらとともにMPCバッジの下みごと顔を揃えた。
さらにはプリマス・ダスターの副産物として、ダッジ・デモンまでがアニュアル・シーズン中盤になって登場するほどの賑わいをみせた。スーパーカー/マッスルカー・ブームの勃興と連動するように会社を興したMPCは、その市場の変化にもきわめて適切に対応していた。
これらすべてのキットが判で捺したような旧フォーマットであったなら、おそらくMPCは時期こそ違えamtと同じ盛衰を再演することになっただろうが、そうはならなかった。MPCはこの充実したラインナップを構成するキットそれぞれに、一見ばらばらにみえるほどタイプの異なる「試行」を積極的に盛り込んだ。「マイルド&ワイルド」キットと「プリペインテッド」キットである。
マイルド&ワイルドは、同年のジンガーズ!のダイナミズムに強い影響を受けた3イン1カスタマイジングキットの発展形だった。キットはいずれもファクトリーストックとして組めるようになっているが、追加のカスタマイジングパーツには比較的穏当なもの(マイルド)ときわめて奇抜なもの(ワイルド)がどちらも用意された。
ことにワイルドバージョンのすさまじい異形ぶりには、ユーザーにキットの購入を一瞬躊躇させるほどのインパクトがあった。パッケージは縦長レイアウトのボックストップとなり、マイルド&ワイルド両方の完成見本イラストレーションを併置する手法が採られた。
一方のプリペインテッドキットは(クーガーの例外を除き)塗装済みキットというわけではなく、一種の先祖返りのようなキットで、プラスチックという素材に本来期待されていたカラフルな成型色をもう一度キットに取り入れようとするものだった。
これがちょうど1969年から3年間にわたりモパー(クライスラー系のハイパフォーマンスカー)に提供されて話題となったハイインパクトカラーに触発された試みであったことは想像に難くないが、こうしたことが試みられる背景には、まだまだ缶スプレー主体だったモデルペインティングの限界――色数はまだ少なく、エアブラシの普及はまだ少々先で、そもそも彩度の高い鮮烈な色ほど混色は不可能――があり、そうした現状にキットの側から配慮をみせたものだったともいえる。
試行錯誤の果てに見えてきたのは…?
マイルド&ワイルド、プリペインテッドキットは、ともに比較的短期間のみの徒花となってしまったが、果敢に新しいことを試み、そして自由に失敗することができるのは、ゼネラル・ミルズという強大な後ろ盾を得たMPCの特権となりつつあった。それはまるでモチベーテッド・ポジティブ・チャレンジ(意欲的で前向きな挑戦)こそがMPCの本当の社名であるかのようだった。
もちろんMPCは試行錯誤と失敗ばかりに終始したわけではない。奇天烈を装ってはいたけれど、この年のMPCアニュアルキットの出来はいずれ劣らず素晴らしいものだったし、アニュアルキット・ラインナップの最末尾(品番1-7129)には、amtに遅れをとることなく箱型バンのダッジ・スポーツマンがしっかりと名を連ねていたのだった。
1971年は、アニュアルキットが「アニュアルキットらしさ」をついにかなぐり捨てた年だったと総括することができるだろう。とりすましたキャットウォークを気取ったモデルがしずしず歩くデトロイト流の「お披露目」は完全に過去のものとなった。
アニュアルキットはもはやビジネスの足しにならないとみたレベルは1971年のデトロイト・コレクションからさっさと身を引いてしまい、ジョーハンは「裏方に専念する」といわんばかりの職人仕事にいよいよ没頭した。モノグラムは冗談でもなんでもなく、マテルから「プラモデルをもっとおもちゃらしくしろ!」との断固たる圧力をかけられ続け、本当にスヌーピーのキットを作らされていた。
これまでアメリカンカープラモを生業としてきた者たちが、みな否応なく身の処し方を考えざるを得ない潮目がいよいよ目前に迫っていることは、誰の肌身にもあきらかだった。それはスーパーカー/マッスルカー・バブル崩壊のひとことでは終わらない、「われわれはこの先、何をプラモデル化すればいいのか」という根源的な問いへの回答期限でもあった。答えをすでに手にしていたのはMPCか、それともamtか。あるいはレベルか、モノグラムか。
※今回、復刻版アメリカン・ラフランス全3種およびレスキューバンの画像は、有限会社プラッツよりご提供いただきました。ありがとうございました。
写真:羽田 洋、畔蒜幸雄、秦 正史
文・bantowblog/提供元・CARSMEET WEB
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