そのプロセスの中には、南北分断された韓国人の無念や、今の「対中包囲網」を不満に思う中国人の思いも、そして靖国神社のような論争的な存在に眠る「日本人の立場から見た意地」のようなものもいかに「(文学理論で言う)ポリフォニー的なストーリー」の中に吸収していけるかどうか?というチャレンジが必要になる。

その時代になってくれば、むしろ靖国神社は「今の形」とは違うストーリーではあれ、国際的にちゃんと提示できる「日本の自己像」の中に昇華できるようになるので、今の間は紛糾しておくしかない…という感じなんですよね。

それが生まれるまでは、まあ「わかりあえない事が当然」であり、「今はわかりあえない」ことによってのみ、将来本当の意味で「わかりあえる」道も開けてくるのだ、という話なわけですね。

もちろん、日本の旧軍が行く先々で決して品行方正でなく色々悲劇を巻き起こしてしまった事が忘れがちなのだ、という意見も消えないように主張し続ける人たちも必要ですが、それが広く安定的に受容されるようになるには、人類史全体に対するもっと広く深い見方で「あらゆる存在の意地がポリフォニー的に吸い上げられる」ようになることが必要だということですね。

そのあたりで、「靖国問題」みたいなものをどう捉えかえし、そしてその先であの「かなり右翼的な人でもちょっと問題では?と感じる遊就館の展示」をどう変えていくべきなのか?みたいな話についても考察します。

つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。

編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2024年9月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。