ダイヤモンドオンラインに「【どうする家康】“大阪の陣”の裏に豊臣家の不運…徳川・豊臣・織田が「1つの家」になれたシナリオとは?」を掲載したのでそのポイントと補足を紹介する。

関ヶ原の戦いに勝ったり、将軍になっても、徳川の天下は安定しなかった。豊臣秀頼が成長したら豊臣の天下に戻るべきと言うのがむしろ常識だったのかもしれない。

大阪城 bee32/iStock

家康もそれが心配だから、秀忠は江戸に置き、自分は駿府にあった。これは、天下を秀頼に渡しても東日本は手放さないという意思表示だ。豊臣に天下を渡したくなかった、秀頼が伏見にあって政治をするほうが立場が強くなる。

また、秀忠も夫人は茶々の妹だし、秀頼夫人は千姫だし、息子の家光は出来が悪いのだから無理したくないのも事実だった。だから、家康は秀忠側近の大久保忠隣を豊臣への内通を理由に改易したりした。

さらには、浅井三姉妹など女たちが談合して、徳川・豊臣が両立できる余計な知恵を出ささないように気を配った。

大坂方との外交交渉のなかで家康が最も恐れたのは、徳川と豊臣が両立できるような、いい知恵が出され、それに支持が集まることだった。だから、そういう知恵が出る余地をできるだけ最小化した。

大坂冬の陣が始まる前の春に、北政所寧々の秘書役だった孝蔵主が、江戸に移ってしまった。秀吉のもとで女奉行といってよいほどの辣腕ぶりを発揮した外交交渉の達人だった。

その経緯は謎なのだが、彼女がいなくなったことで、寧々は無力化した。交能力抜群の孝蔵主が寧々の周りにいれば、寧々が余計な動きをするのではないかと心配した家康が、寧々から引き離したのである。

このために、寧々は大坂冬の陣や夏の陣の間、指をくわえて傍観するしかなかった。「どうする家康」では、寧々は家康と関係良好というよりは、茶々への嫉妬から夫の遺言を裏切り家康の天下取りを助けたように描かれていたが、事実ではない。