実際に東野氏の記事を読んで、そのおかしさに気づく読者もいなくはなかった。しかし圧倒的多数はそうではなく、当の河野氏自身も含めて、多くのTwitterユーザーが好意的に拡散していた。
なぜ、そうなるのか。理由はシンプルである。
「①専門家が、②ファクトチェックで、③マスコミ(マスゴミ?)を、④論破した」。このフォーマットに落とし込むだけで、あたかも自分が知的な存在になれたかのように、勘違いするセンモンカやその読者が多いからだ。
特定の「形式」にさえ合致すれば、内容は空っぽでも間違いでもいいのだから、チョロいものだ。そうした手法で自尊心とフォロワー数を満たす「学者」はいま、その専門を問わず見られる。
要は亜インテリの悲喜劇だけど、むかし丸山眞男が言ったのとはだいぶ違う。丸山が問題にしたのは戦前、庶民には大学教員(インテリ)の言論がまるで届かず、そもそも別の通俗的な「教養」が根を張っている状況だった。
対して今日、大学教員たちはSNSほかで、むしろ一般の読者と繋がり過ぎるぐらい繋がっている。しかしそこで起きたのは、庶民の教養の底上げではなく、学者の側がフォロワーのウケを狙って、議論のレベルを下げることだった。つまりは「インテリまで亜インテリになった」のである。