1882年4月6日、自由党党首であった板垣退助が短刀を持った暴漢に襲われるという事件が発生した。もみ合いの末に数ヶ所刺されたものの、板垣の命に別条はなかったというこの衝撃的事件は、岐阜(遭難)事件あるいは板垣退助暗殺未遂事件とも呼ばれ知られている。

 板垣を襲った犯人は相原尚褧(あいはらなおふみ)という27歳の小学校教員であった。士族の生まれの相原は、知る人々から「温順」「口数の少ない大人しい青年」という評判が聞かれるような非常に優秀な人物であったそうだ。だが、その一方で、父親や師範学校の教育の影響で強い保守主義の思想を抱いていた人物でもあったという。

 彼が板垣に対する反抗を決意したのは、新聞の記事に起因していたと言われている。旧幕臣であった福地源一郎の主宰する「東京日日新聞」は、政府の御用新聞だったこともあり、板垣の推し進める自由民権運動を日々攻撃する内容を掲載していた。自由民権運動に対する東京日日新聞の記事は、運動妨害の意図が強くほとんどが捏造された記事であったという。

 この東京日日新聞を愛読していたという相原は、記事によって板垣を「皇室の敵」と盲信するようになったという。これにより、板垣を殺せば党は解散し日本の将来はよくなると考え、暗殺を試みた相原であったが、結局は逮捕され、謀殺未遂の罪により網走監獄へと送られることとなった。その後、板垣自身の助命嘆願書の提出などにより恩赦となった相原は板垣のもとを訪れ謝罪し、板垣も相原を激励したという。

板垣退助暗殺未遂事件には黒幕が存在した…?犯人「相原尚褧」は口封じで殺されたのか
(画像=画像は「Wikipedia」より,『TOCANA』より 引用)

 だが、この板垣退助暗殺未遂には黒幕がいたのではないかという噂もある。その噂が出回るきっかけとなったのは、相原の突然の失踪であった。

 出獄後の相原は、北海道での農場経営を志し、新たな希望を胸に八日市港から汽船に乗って北海道へと渡っていくこととなった。ところが、汽船が遠州灘を通過したころ、彼の姿が船内から忽然と消えてしまったのである。海に落ちたのではないかと考えられたが目撃者もおらず、ついに相原の消息はわからずじまいになってしまった。

 この相原の失踪については事件後、様々な噂が立つこととなった。『自由党史』では、「良心の呵責にたえかねて自殺した」「賭博によって金品を奪われ海に投げ込まれた」といった諸説が列挙されているが、その諸説の中に「襲撃事件の教唆者が秘密を暴露されるのを恐れて口を封じた」というものがあったという。すなわち、彼の暗殺未遂には黒幕がおり、相原が悔悟の念から公表することを恐れ殺害したというのである。暗殺未遂の実行犯である相原の死の真相は、今も謎のままだ。

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提供元・TOCANA

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