GACKTといえば、日本のシンガーソングライター・俳優として活躍する人物である。正月の恒例番組である『芸能人格付けチェック』では、全問正解という快挙も成し遂げたことがあり、またその中性的な美貌も相まってミステリアスな人物として今日も絶大な人気を博している。

 俳優としての活躍で象徴的であったのは、2007年の大河ドラマ『風林火山』に上杉謙信役として起用されたことである。彼が東京ドームでライブを行った際に乗馬をし、その乗りこなしぶりが目にとまったことでオファーが来たと言われているが、時代劇とはかけ離れていた出で立ちなどから、放送前は「イメージが違う」「女性に媚びている」といった下馬評が多数寄せられていたという。ところが、実際に放送されるや否やその鬼気迫る演技が好評を得て、一気に多くの人々が魅了された。驚くべきは甲、冑も馬も彼自身の自前であったということであり、彼の謙信に対する役作りは並々ならぬものがあったようである。

 この頃一時、「GACKTは上杉謙信の生まれ変わり」ではないかという都市伝説が広まっていたと言う。その大河ドラマでの演技があまりにも迫真なものであったこともそうであるが、上杉謙信には、矢切止夫による主張が発端となったと言われる「実は女性だったのではないか」という奇説も存在しており、そのことが中性的な彼の姿になぞらえられたであろうことは想像に難くない。

 だが、実は謙信以上にGACKTと非常に共通する部分が多い人物が、謙信に関係した人物の中に存在していると言われている。その人物とは、謙信の家臣であり、また織田信長も恐れたと言われている猛将「河田長親」(かわだながちか)である。

 この「GACKTの前世・河田長親説」は、 山口敏太郎が唱えた仮説である。 その内容は具体的にどのようなものであるか、 まずは河田長親がどのような人物であったかを見てみたい。

 1559年のこと、上杉謙信(当時長尾景虎)が室町幕府の将軍・足利義輝を拝謁するために上洛するその途中、近江国の日吉大社を参拝していたところ、非常に顔立ちが美しい稚児を見つけて越後に連れて帰ったという。この稚児こそが、のちの長親である。

 彼は信長に寝返りを誘われても主君である謙信の忠義を立てたほどに一途な人物であった。彼の存命中は信長も非常に手を焼いていたようであり、謙信の死後の「御館の乱」が終結して間もなく、越中松倉城で30代という若さで急死したという。

 山口の説によると、この長親とGACKTの人生には、いくつもの似通った点が確認できるのだという。

 GACKTは、生まれは沖縄であるが、小学校から高校までは滋賀県に住んでおり、高校時代に通っていた学校は守山高校だったという。長親の生まれは、まさに近江の守山であったというのだ。

 また、彼はかつて自分の生まれ年を1540年と設定していたことがある。ライブのMCの際に冗談で言ったものがしばらく設定として付けられてしまったとのことであるが、実は長親の生年も1540年代(諸説あり)なのだ。

 さらに、GACKTは大学が京都であったというが、京都というのは先に紹介した謙信のいわば長親をスカウトするきっかけにもなった京都への上洛にもつながってくる。京都という場所は、両者にとって成功の足がかり、あるいはメジャーデビューのきっかけとなった地として共通しているのだ。加えて、いずれも美貌の持ち主であり才覚に溢れていたというのも、あまりに酷似した人生パターンであるといえるだろう。

 仮にGACKTが河田長親の生まれ変わりであったとすれば、長親が生涯その忠義を誓った上杉謙信役を彼が務め上げたというのは、なんとも因果な話である。

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文=ナオキ・コムロ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

提供元・TOCANA

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