こんにちは!2024年6月に日本遺産検定を取得し、日本遺産ソムリエとなった土庄(とのしょう)雄平です。
「日本遺産」とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーのこと。現在、全部で104のストーリーが認定されています。
連載【私の好きな日本遺産】では、これまで全国を旅した経験の中から、筆者イチオシの日本遺産をピックアップし、その魅力や名残あるスポットをご紹介したいと思います。第5弾は、国境の島をなす「壱岐・対馬・五島」です。
国境の島とは?
古代日本の成り立ちや国際情勢を理解する上で、壱岐・対馬・五島といった国境の島々は欠かせません。これらの島々は、日本と諸外国との交流や攻防の歴史を物語る重要な場所です。
これらの島々を経由して、遣唐使などが大陸の文化を日本に伝えました。また、朝鮮半島への出兵の拠点となり、元寇など国家の存亡を賭けた戦いの舞台にもなりました。
これらの島々を通じて、日本がどのように外部との関わりを持ち、その影響を受けて発展してきたのかを知ることができます。
国境の島の2つの顔を物語る「壱岐」
日本史上初の文献資料として知られる「魏志倭人伝」には、弥生時代の日本を統治していた邪馬台国と卑弥呼が注目されがちです。しかし、実はもう1つ国の名前が登場します。それが「一支国(いとこく)」です。
そして一支国の首都は、壱岐にある「原ノ辻(はるのつじ)遺跡」であったと推定されています。巨大な館の跡に加えて、大陸系出土物が多く見つかっており、大陸と密接な関係性を有した強大な勢力であったことが裏付けられています。
原の辻遺跡
住所:長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触
もう一つ印象的なのは、壱岐は、元寇(1274年と1281年)において重要な舞台となったことです。元軍は壱岐を経由して日本本土に侵攻し、多くの戦闘が繰り広げられました。特に1274年の文永の役では、壱岐の住民が激しく抵抗しましたが、多くが犠牲となりました。
元寇の影響により壱岐島は大きな被害を受けましたが、その後の防衛強化に繋がり、日本全土の防衛意識を高める契機となりました。
その結果、1281年の弘安の役で元軍の日本上陸は失敗に終わっています。この歴史は、壱岐の重要性を再認識させるものです。
文永の役新城古戦場 新城千人塚
住所:長崎県壱岐市勝本町新城東触1187-1
故人に思いを馳せる最果ての地「五島」
飛鳥時代、日本と新羅の外交関係が決定的に悪化した白村江の戦い。その結果、遣唐使は従来の壱岐や対馬を経由する中国への航路を変更し、五島列島を経由して東シナ海を渡るという危険なルートを選ばざるを得ませんでした。
ここで注目すべきは、その新たな航路の中継地点となった福江島(五島のうちの1つ)の三井楽(みいらく)です。
当時の航海技術では無事に帰還する確率が低かったため、日本最果ての地である三井楽は、航海によって亡くなった故人に会える場所だと象徴され、歌に詠まれるようになったのです。
実際に訪れると、歴史情緒が漂う最果ての島の臨場感を今も感じることができますよ。海岸沿いには樹木がなく、草原が広がり、海と大地の境界には黒い溶岩礫が露出しています。
半島を振り返ると、五島最高峰の「七ツ岳」などが印象的な山容を見せてくれます。その景観は非常にスケールが大きく、最果ての地ならではの情緒を感じさせます。
祈りの島の歴史も伝える「三井楽」
福江島の三井楽には、もう1つの重要な側面があります。それが、キリシタン墓地「渕ノ元カトリック墓碑群」の存在です。
五島列島は、禁教期に弾圧を逃れるために本土から移住したキリシタンの祈りの島として知られています。
島の北西の最果てにあるこの墓地は、幕府の勢力が及ぶ長崎本土から最も遠い場所に位置しています。堂々と築かれた墓碑群は、この地に移住したキリシタンたちが弾圧の危険を承知しながらも、自らの信仰を堅持し続けたことを示しているのです。
渕ノ元カトリック墓碑群
住所:長崎県五島市三井楽町渕ノ元43
【文・写真 土庄雄平/提供元・たびこふれ】
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