表3を使えば、日本の2020年の比率が2.01%になり、ドイツを追い越したことが分かる。そうすると、大西はどのような結論を下すか。少なくとも著書本文のままではないであろう。

最新のデータが公表されているのならば、積極的にそれを使わないと、誤った推論と結論が生じる危険性が生まれる。それは国民に日本の少子化の現状を誤って伝えることにもなる。

「マルクス経済学」での人間像は「ホモ・エコノミクス」なのか

さて、大西の専門は「数理マルクス経済学」と自称しているが、マルクス経済学は「人間は利益で行動する」(大西、2023:55)ことを前提とするとも記述した。

そうすると、経済学的人間像は「ホモ・エコノミクス」だから、これは近代経済学に限定されると私はこれまでは判断していたが、マルクス経済学での人間像も同じなのか。どの点が同じであり、何が違うか。あるいは「マルクス経済学」とは異なり、大西が掲げる「数理マルクス経済学」のみ「ホモ・エコノミクス」が使われるのか、判然とはしない。

「人間の社会的存在がその意識を規定する」は多様性に富む

これまで私は、マルクス経済学ではマルクスの『経済学批判』での周知の命題、すなわち「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」(マルクス、1956:13)と理解してきた。

ただ「マルクス経済学」での社会的存在の典型である「資本家と労働者」とは異なり、社会学的には「人間の社会的存在」は、たとえばジェンダー論的な位置づけもあるし、階層論的な存在規定も可能になる。

かつての分類を使えば、ブルーカラーワーカーとホワイトカラーワーカーの相違もあり、どの「社会的存在」に立脚するかで意識も行動様式も変わってくる。年齢別には世代論的存在論があり得るし、過疎地・限界集落での居住という社会的存在もあれば、大都市・都心・タワーマンション暮らしという社会的存在も珍しくない。決して「資本家と労働者」だけが社会的存在の象徴なのではない。

加えて社会学では、人間像が「ホモ・ソシオロジクス」だから、「人間は利益で行動する」だけとは考えない。なぜなら人間は、上述したさまざまな「社会的存在」を使い分けざるをえないから、「利益第一主義」ではなく、時には損しても行動したり、自己利益を守る前に「他者利益」を優先することも珍しくないからである。

子どもは「効用」概念で捉えられるのか

しかし、大西が子どもを「効用」概念で捉えたことにより、「数理マルクス経済学」はまぎれもなく「ホモ・エコノミクス」を人間像に持つと解釈される。そして、社会学の観点からすると、本書での一番の疑問点もそこに集中する。

たとえば一般的な効用(utility)概念は次のように定義されてきた。「個々の消費者は、その所得をいくつかの財・サービスの購入のために用い、それらの財を消費することにより主観的な満足を得るが、その満足度を効用という」(大阪市立大経済研究所編『経済学辞典 第3版)、岩波書店、1992)。

子どもを「効用」で捉えるのは「ヒトの軽視」である

この定義に従えば、社会学では子どもを「財・サービス」とはみなさないから、「効用」概念は使えない。「近代経済学は各人が子供をつくろうとするのはそこに『効用』があるから」(同上:56)なのか。大西はいかなる理由で「子どもの効用」概念を使ったか。それは子どもを「人」扱いせず、「物」扱いしているからなのではないか。

これは社会学的には事実誤認となる。「子どもをつくる」理由は「効用」などにあるのではない。なぜなら、子どもは「財」でも「サービス」でもないからである。

このような大西の論法は「ヒトの軽視」(同上:68)そのものであり、少子化や「少子化する高齢社会」の解明には無力である。

子どもの「効用」では「人口減少社会」への対応は不可能

大西が依拠したバローとサラ・イ・マーティンのモデル、たとえば、

諸個人の効用=彼自身の個別的効用 + 割引き因子 + 子供の数 + 子供自身の効用……(1)

でも、「各人(親、金子注)は子供よりも自分自身のほうが大事なので、子供ひとりひとりの大事さ加減は割り引かれるような定式化をおこなっています」(大西、前掲書:57)とのべられている。

「親は子供よりも自分自身が大事」は、大西、バローとサラ・イ・マーティンではそうかもしれないが、それに違和感をもつ親はGNGSの別なく多いに違いない。もちろん家族社会学の視点からも、子供の数により「効用」を割り引くわけにはいかない。

効用関数の成立要件

そもそも効用関数U=U(x1,x2,・・・、xn)が成立するのは、消費される各種の財の量なのだから、消費量x1,x2,・・・、xnに子どもという人間が入ることはない。リンゴ、鉛筆、ボールペン、腕時計、スマホ、パソコン、クルマ、住宅などの財としての量が確定できる商品ならばともかく、人間の子どもをそこに入れる「理論」は疑わしい。なぜなら、子どもは「財」を超える存在だからである。

要するに、家庭内教育、幼児教育、義務教育、高等教育を通して20年近くかけて育て上げる子どもは、「財としての量」には還元できない。まして子ども1人には最も効用があり、多くなるにつれて「大事さ加減が割り引かれる」などということは、G7の日本だけではなく、GNもGSも世界のどの民族でもあり得ないだろう。

それが「数理マルクス経済学」の軸であるのならば、いくら「強い信念をもって採用して」(大西、前掲書:55)いても、それは現実にはそぐわない。

子どもの数に「限界効用」が使えるのか

さらに大西は「子供が多いほど嬉しい(効用が高い)とともに、・・・・・・『子供1人当たりの効用(嬉しさ)』は少しずつ減少する(逓減(ていげん)する)とも想定されます)(同上:59)と書いたが、子ども自身の気持ちや子育てする親や家族の心情を無視している。これもまた実態離れといえるであろう。

さらに疑問点として、「子供は人数が減れば減るほど1人当たりの可愛さが増す」(同上:57)もあげておこう。

子どもは労働力になるだけか

この正確な引用文を示しておこう。「もちろん、子供は純粋経済学的な意味でも単なる『コスト』ではありません。次世代に労働力となってマクロ経済に貢献するからで、実際、今これが不足しているからこそ『少子化対策』が叫ばれている」(同上:62)。

果たしてそうか。このような認識もまた、大西流の「数理マルクス経済学」の限界を示す以外の何物でもない。「資本家と労働者」という単純素朴な二項対立から、すべからく子どもはみな「労働者」になるという「信念」がそこにも垣間見える。

「数理マルクス経済学」は「人間文化資本」を無視している

すべての子どもは、生まれ落ちた家族が持ち伝えてきた「人間文化資本」を持っている。

それは、元来は身体固有の能力や士気という意味であるが、「家庭や学校教育を通して個人に蓄積された知識、教養、技能、趣味、感性」なども含む。要するに個人の持っている能力の一部である。

「人間文化資本」の三類型

箇条書きでこの「人間文化資本」をまとめれば、

身体化された文化資本(家庭や学校教育を通して個人に蓄積された知識・教養・技能・趣味・感性) 客体化された文化資本(書物・絵画・道具・機械などの物質として所有可能な文化財) 制度化された文化資本(学校制度などで与えられた学歴・資格)

に分けられ、格差や階層研究でも応用されている(ブルデュー、1979=2020:7)。

子どもが同じ親から生まれても個性があるのは、遺伝はもちろんだが、家族内で育つ過程において、1.2.3.それぞれの身に着け方が異なるからである。

「身体化された文化資本」で例示すれば、動植物に興味を持つ子もいれば、星空を愛好する子どももいるように、また、野球少年もいれば歌が好きな少女もいる。兄弟姉妹でも知識対象が違う。理科が好きな男の子もいれば、地理を得意とする女の子もいる。

「客体化された文化資本」としての書物・絵画・道具・機械などについても、子どもなりの嗜好がある。どのような本を好むか、好きな絵はなにか、人物画か風景画か、水彩画か油彩画かなどで相違するのが自然である。

制度化された文化資本にしても、身に着けておきたい資格や免許は千差万別である。

子どもは「労働力」だけになるのではない

このような子どもの育成に関わる過程への配慮をすべて省略して、「労働力となってマクロ経済に貢献する」(同上:62)という発想のレベルでは、政府のいう『戦略』における「異次元性」には届かないだろう。

図5は世界主要国における「グローバル・イノベーション・インデックス」の一部だが、日本が世界で13位となった22年や23年は、大学教育現場を少し知っている立場からはよく健闘したと評価される。なぜなら、義務教育はもちろん、大学教育でもfランクあたりでは、すでに講義や演習が成立しないクラスが出てきたからである。

このような人材育成しかできない現在、子どもを単なる「労働者」としてのみ位置づけて、その「効用」を平気で計算しようとするような発想からは、イノベーションに貢献できる子どもの数も先細りするからである。

図5 日本のイノベーション力の推移出典:『日本経済新聞』2024年1月1日

加えて、「子ども支援金」などの原資に転用された「こども・子育て特例国債」の償還の最終年度が2051年とされたことで、それに直面する次世代次々世代はますます苦労するであろう。

『戦略』が欠如した過去30年間の「少子化対策事業」の点検、「政府の請求書をどの世代が払うかを明らかにするために開発された「世代会計論」からのアプローチこそが緊急に求められる(コトリコフとバーンズ、2004=2005)。

加えて、社会学の家族論を基礎にもつ「社会化論」の観点から、子育てを軸とした『戦略』を具体化するために、新しい社会科学による「社会設計」が待望される時が到来したように思われる(金子、2023a)。

【参照文献】

Bourdieu,P.,1979,La distinction:critique social de judgement, Éditions de Minuit.(=2020 石井洋二郎訳『ディスタンクシオン1』[普及版] 藤原書店). 人口戦略会議,2024,『人口ビジョン2100-安定的で、成長力のある「8000万人国家」へ』同会議. 金子勇,1998,『高齢社会とあなた-福祉資源をどうつくるか』日本放送出版協会. 金子勇,2003,『都市の少子社会―世代共生をめざして』東京大学出版会. 金子勇,2006,『少子化する高齢社会』日本放送出版協会. 金子勇,2018,『社会学の問題解決力』ミネルヴァ書房. 金子勇,2020,『ことわざ比較の文化社会学』北海道大学出版会. 金子勇,2023a,『社会資本主義』ミネルヴァ書房. 金子勇,2023b,「『少子化対策の異次元』の論理と倫理」神戸学院大学現代社会学会監修『現代社会の探求』(学文社、2023:109-129. 国立社会保障・人口問題研究所編,2021,『令和元年度 社会保障費用統計 2019』同研究所. 国立社会保障・人口問題研究所編,2022,『令和2年度 社会保障費用統計 2020』同研究所. 国立社会保障・人口問題研究所編,2023,『令和3年度 社会保障費用統計 2021』同研究所. Kotlikoff.L.J. and Burns,S.,2004,The Coming Generational Storm, The MIT Press.(=2005中川治子訳 『破産する未来』日本経済新聞社) Marx,K.,1859=1951,Zur Kritik der politischen Ökonomie,erstes Hett,Volksausgabe Dietz Verlag, Berlin.(=1956 武田隆夫ほか訳『経済学批判』 岩波書店) . 内閣官房,2023,『こども未来戦略』(2023年12月22日). 大西広,2023,『「人口ゼロ」の資本論』講談社. 大阪市立大経済研究所編,1992,『経済学辞典 第3版』岩波書店. Putnam,R,D.,2000,Bowling Alone:The Collapse and Revival of American Community,Simon & Shuster.(=2006,柴内康文訳『孤独なボウリング』柏書房). 清水幾太郎,1993,『清水幾太郎著作集 18』講談社. 総務省統計局,2023,『社会生活統計指標 2023』同統計局.

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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