エルドアン大統領がフランシスコ教皇と電話会談したのは、神聖なもの、信仰への冒涜に対して宗教指導者に連帯を呼び掛ける狙いがあったからだろう。イスラム教創設者ムハンマドへの風刺、キリスト教のイエスへの中傷、誹謗など、世俗化した欧米社会では、宗教者の信仰心を冒涜する言動が日常茶飯事となってきている。
「政教分離」(ライシテ)を標榜し、人道主義を賛美する傾向の強いフランスでは大統領を筆頭に、人の信仰心を冒涜する自由があると受け取られ、それを称賛するような傾向すら強まってきている。
ロシアで2012年2月、モスクワ市内の救世主キリスト大寺院の祭壇前でライブを行い、覆面をかぶって踊りながら「マリア様、プーチンを追放して!」と歌った女性パンク・ロックバンド「プッシー・ライオット」の3人のメンバが拘束されたことがあった。主要な拘束理由は、独裁者プーチン大統領への批判ではなく、教会の祭壇の前で行った行為が宗教施設への冒涜行為とみなされたからだ。ロシアでも冒涜行為は犯罪だ。
それでは、「冒涜」とは何を意味するのか。神聖なもの、清浄なものへの不道徳的な言動と受け取れる。具体的には、神、仏など神聖な宗教人物、信仰への中傷、誹謗を意味する。ちなみに、他宗派の宗教心を冒涜しない自制は「言論の自由」の制限を意味しない。
一方、「人には冒涜する自由(権利)がある」というマクロン大統領の発言はフランス革命以来の人道主義の極致を行く考えではないか。神を冒涜する自由ですら許されるといった、無節制な思想だ。「冒涜」という言葉は死語となっている。換言すれば、神がいなければ、全てが許されるという世界観だ。
トマ・ジョリー氏にとって「多様性と異質性への称賛」が、エルドアン氏にとって、「表現の自由と寛容という名目で、人間のもつ神聖なものへの信仰心、帰依を踏みにじっている」という批判になるわけだ。エルドアン氏がフランスの不道徳な行動に対して他の宗教指導者に連帯を呼び掛けたことは評価される。宗教者は結束して、「信教の自由」を守ると共に、神聖な宗教的な内容への冒涜は許されない、という共通の認識が必要だろう。