賀茂忠行(かものただゆき)は、平安時代の代表的陰陽師であり、かの安倍晴明の師匠と言われている人物である。陰陽道の3部門「天文道」「暦道」「陰陽道」すべてに通じた有能な人物として、それらを総括した陰陽家・賀茂氏を確立させた存在として知られている。
忠行の生年に関する話はハッキリとしておらず、父親については平安前期の貴族であった賀茂岑雄、あるいは同じく平安時代の貴族であった賀茂人麻呂の子・賀茂江人の2説が唱えられている。940年、平将門・藤原純友の乱が勃発した際に、藤原師輔に対し戦乱や災害を退けるとされる修法「白衣観音法」を修するべきと進言したと言われているのが、彼の表舞台での最初の登場になったと言われている。
彼が陰陽師として名を馳せるきっかけとなったのは959年のこと。村上天皇の御前で射覆(せきふ)という、言うなれば透視を行なったその折、彼は自分の前に差し出された箱の中に朱色の紐でくくられた水晶の数珠が入っていることを見事に言い当て、これによって手腕を称えられたという。
彼は、安倍晴明と賀茂保憲(やすのり)という当時強力な陰陽師として名を轟かせた二大ヒーローを見出したことでも知られている。保憲は忠行の嫡男であったが、儀式についてきた幼い彼がすでに鬼神を見抜く神通力を生まれながらにして備えていることを知ったことがきっかけで、後継者として相応しいと考えたという。
また、晴明にまつわるエピソードには、『今昔物語』に次のようなものがある。ある日の夜、弟子である晴明がまだ若かりし頃のこと、下京の辺りに出かけるために忠行が牛車に乗り、晴明がお供としてついていった。忠行が牛車の中で眠っていたその時、前方から鬼たちがこちらへやってくることに晴明が気づいた。忠行は晴明に起こされて目を覚まし、あわやのところで術法により鬼たちから姿を隠し、難を逃れることができた。
この話は、たとえ修行した者であっても鬼の姿が見えるというわけではないことが前提としてあるため、いかに若年の晴明の力量が高かったかが伺える内容にもなっている。この類まれなる素質を持った晴明を忠行は非常に気に入り、陰陽道の奥義を彼に伝えたという。
忠行は、晩年についてもその詳細がわかっておらず、一説には960年には亡くなったとも言われている。しかし、彼によって見出された安倍晴明と賀茂保憲の両名によって、陰陽道は隆盛をきわめることとなり歴史に刻まれることとなった。この二人を見出したことこそが、彼の最も偉大な功績であったという声も多いという。
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文=黒蠍けいすけ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
提供元・TOCANA
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