琉球王国は、15世紀半ばから19世紀末まで存在していた一つの独立国であった。琉球王国の建国は、1429年の沖縄本島統一に由来すると言われているが、実はそれ以前にも王統と呼ばれるものが存在していたと言われている。
琉球における王統は、天孫によるものが始まりであると言われている。天孫王統25代王の時、その家臣であった利勇と言う人物が反乱を起こしたことで最初の王統は滅ぼされ、後に舜天によって利勇が討たれたため、新たに舜天王統が誕生した。舜天王統は1187年から1259年まで3代続き、また舜天にまつわる話が正史にも登場するため、舜天は神話の中の人物ではなく実在していたのではないかという可能性も考えられている。
この舜天には、なんと源為朝という源氏が父親だったとの伝説がある。源為朝とは、平安時代末期の武将であり、源義経の伯父にあたる人物である。幼少の頃から乱暴者だったと言われており、『保元物語』によると、身長2メートルを超える体躯に剛勇無双と謳われ、九州に送られた後はその地を3年で従えることができたほどだったという。
鳥羽法皇の崩御がきっかけに保元の乱が起こり、平清盛と戦ったもののこれに敗れてしまい、伊豆諸島へと流されてしまう。その後、朝廷が大軍を伊豆に送ったことで追い詰められ、最後には切腹をして息絶えたと言われている。
為朝は、その巨体や武勇から伝説の多い人物としても知られており、佐賀県の黒髪山で角が7本ある大蛇を仕留めたと言うものや、流された伊豆の島にいた鬼を討伐したと言ったものなどがある。そのような、為朝の伝説の一つとして語られているのが「為朝琉球渡来伝説」と呼ばれるものだ。
伝説によると、保元の乱で破れて伊豆に流された頃、為朝は沖縄へ渡り、今帰仁(なきじん)に上陸した。現地のその土地の按司(豪族の称号)の妹と結ばれ一子を設けて伊豆へ戻っていったが、この誕生した子こそがのちの舜天となったという。舜天は15歳で浦添の按司となり、21歳で天孫を謀殺した逆臣である利勇を討って王となった。
一説には、このような伝説が生まれた背景には、17世紀初頭の薩摩藩による琉球王国への侵攻が影響していたものと考えられている。大まかに言えば、薩摩藩による琉球支配を「日本と琉球が共通の祖先である」と言うことで正当化が図られたということだ。舜天が登場する『中山世鑑』という琉球の正史と言われる書物が17世紀半ばに著されたが、この中で為朝の琉球渡来伝説が記述されていることがきっかけとなり、江戸時代には源為朝が読み物の人気コンテンツとして持て囃され、また書物の記述によって、日本との同祖を琉球側が公式に認めたという根拠としても用いられている。
この為朝伝説は、のちの日琉同祖論の一つとして登場することになっていった。日琉同祖論は、大正ごろに浮上し始めた一つの論説であるといわれているが、それは沖縄側から主張され始めたものであるとも言われている。時は、日清戦争で日本が勝利した時代であり、その背景の中で、日本の一部として生きていく選択を選んでの主張であったと言われている。
沖縄本島北部の運天港には、「源頼朝公上陸ノ址」と記された石碑が現在も存在している。1922年に建立された、言うなれば為朝の渡来伝説に基づいて建てられたものであり、その文字を書いたのは東郷平八郎であるという。
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文=ナオキ・コムロ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
提供元・TOCANA
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