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現代社会のどうしようもない病理:コミュニケーション不全

私だけではないと思う。

「現代社会は、何かとてつもなく大きな根源的問題を抱えてしまっている」と感じているのは。今の社会を広く深く覆うコミュニケーション不全についての話である。

結論から書くと、現代社会は、大別して2つの方法でしか相手と向き合えないという病理に蝕まれている。一つは、① 安全なところから、相手を攻撃し、叩くことで留飲を下げる、というアプローチであり、もう一つはその対極、即ち、② 対象と向き合わずに、何となくやり過ごす、というアプローチである。

そう、厳密には、相手と向き合う方法と言いながら、向き合えてすらいない、ということになる。生身の人間という対象と向き合い、しっかりコミュニケートするということが出来ない社会。構成員同士が互いに向き合えないという社会の機能不全状態が現代社会の実相である。

これは、過度の合理主義がもたらした宿痾とも言うべき現象であるが、そのことが見えないところで、いや、最近は不気味な姿の一端を露骨にみせはじめつつ、各所で問題を起こし、深刻化し、社会を徐々に蝕みはじめている。

調べものであれば、ちょっと検索すれば大抵のことは分かり、スマホさえあれば、いつでもどこでも、生身の人と向き合わずとも、YouTubeなどを通じて一方的な刺激を他者から得ることができる。Cotomo(コトモ)のようなアプリを使えば(なかなか凄いアプリであり驚愕する)、実際の人を相手にしなくとも、AIが気持ちよく会話の相手をしてくれるし、仮に実在の人との関係が面倒になれば、簡単に、SNSをブロックするなどして通信手段の遮断が出来る。

非常に合理的で便利だが、そこには、真のコミュニケーションが介在する余地が無い。「長屋づきあい」の江戸庶民には想像もつかなかった状態である。

少し前までは、「人という漢字は、人々が互いに支え合う様子を表している」などと教育され、人は他者の協力なしには育たないとされてきた。親しき中にも礼儀あり。種々の関係者とのコミュニケーションには最大限の気を使い、マナーを守って人々は助け合ってきた。今は、親に頼らずとも、また、子に頼らずとも、会社組織にすがらずとも、近所づきあいなどなくとも、充実した“公助”が何とかしてくれる。

良い世の中と言えば良い世の中だが、面倒なお作法を体得して必死に他者とコミュニケート・交流する必要性は相対的に低下していっている。

そんな中で、「相手を深く知る必要性、相手と深く交わる必要性なんぞ一体本当にあるのだろうか」と現代人が疑念を抱いても不思議はない。

「合理的に考えて、時間を消費してまで、また、精神的ストレスを過度に感じてまで、他者と深くコミュニケートする必要などあるのだろうか」、「人は他人の助けなしに生きていけないというのは、果たして未来にあっても真実であろうか」、という根源的な問いに対して、現代人は残念ながら有効な答えを持ち合わせていない。