1976年〜1977年 種を蒔き、馬を放つ
1976年を迎えると、amtの好調セミトラック・シリーズに急ブレーキがかかった。この年、amtから発売された「新製品」は、シリーズの嚆矢であったピータービルト359をはじめ、そのほとんどが再販アイテムばかりとなってしまった。
この新しいテーマの人気が突然退潮を迎えたわけではない。amtはここ数年来、ずっと頭痛の種となっていた労使間の関係悪化がいよいよ顕著になり、その原因である資金繰りの悪化もまた最悪のレベルに到りつつあった。
amtはもともとデトロイトとの親密さを背景に、新しい商品(アニュアルキット)によってその年々のカタログ・ラインナップをすっかり一新することでビジネスを組み立ててきた企業である。この仕組みの維持にアニュアルキット金型の改造による更新は欠かせない要素だが、セミトラックのキットはそうした運用とはじつに相性が悪く、細部を手直しすればまったく新しい商品として通用するようになるパッセンジャーカー的な性格のものではなかった。
セミトラックキットを特徴づけるサイズとフルディテールは、品数を増やすごとにamtの財政を圧迫し続け、それはついに限界を迎えることとなった。
モノグラムを傘下に置くマテルの総帥レイ・ワグナーによって、辣腕をもって鳴らした企業トップのトム・ギャノンを引き抜かれたamtにもはや為す術はほとんどなかった。
工場を休ませないために実行されたセミトラックの再販プログラムは、たとえばピータービルト359に新しいカミンズのターボチャージャー付きディーゼルエンジンを用意してみせる程度の新製品らしさこそ与えはしたものの、それらが特段客の目を惹くほどのこともない付け焼き刃であることは、デトロイトの流儀に精通するamt自身がいちばんよくわかっていることであった。
翌1977年はamtにとってあらゆる意味で一大清算の年となった。ホビー商品としての競争力をすっかり失っていたアニュアルキットのいよいよ決定的な「死」――精密な模型キットによる新車のプロモーションという方法自体を、もはや時代にそぐわない古い手法であるとついに見限ったデトロイトは、amtへのブループリントを含む一次資料の公開を完全に差し止めてしまった。
しかしながら、いまも愛好家間でよく語られるこうした理由は、表向きの方便に過ぎないと筆者は考える。なぜなら、ライバルであるmpcは1977年以降も規模こそ大幅に縮小はすれど、アニュアルキットに相当する新作キットの発表を続けることができていたからで、むしろこの問題の核心はamtのアメリカ企業としての、もっといえばデトロイトの一企業としての身の処し方にあったと推測する。
1977年、amtはイギリス・ロンドンに本拠を置く外資系企業であるレズニー・プロダクツによる買収に応じる決定を下したのである。
1968年に彗星のごとく登場して以来またたく間にアメリカ市場を席巻してしまったマテルのダイキャストミニカー・ホットウィールとの苦しい戦いを強いられていた英国発のダイキャストミニカー・マッチボックス。同シリーズを看板商品として擁するレズニーは、アメリカの巨大市場を戦うためのアイデアとノウハウ、全米にわたるより強力な販売網を心底から欲していた。
amtを傘下に収めることでその一挙獲得を目論んだレズニーは、同社を手に入れるや否や、ミシガン州トロイの歴史あるamt本社と第一工場の閉鎖を決め、メリーランド州ボルチモアにある第二工場への事業集約をおこなった。アニュアルキット革命から20年足らず、デトロイト・アイアン(いわゆるアメリカの三大自動車工業)と比喩的にならび称されたデトロイト・プラスチックスの一角は、ここに音もなく崩壊した。
ちょうどこの頃、奇しくもデトロイト・プラスチック(・プロダクツ)を名乗る企業を長らく率いてきた、アメリカンカープラモともゆかりの深い名伯楽エリック・エリクソン(本連載第3回参照)が事業を売却して引退を決めたことは、ひときわ感慨深いできごととして記憶されている。というのも、興味深いことに引退したはずのエリック・エリクソンは、インジェクション・プラスチックのオーソリティーとしての肩書きをそのままに、amt/レズニーのテクニカルアドバイザーの地位におさまってしまった。
アメリカンカープラモの精密さに魅せられた「諦めきれない者たち」のひとりとして、かつて彼がamtと組んで率いたSMPをもじっていえば「セカンド・ミッション・パイオニア」として、彼は未開墾に等しいほどの荒野に舞い戻ってきたのだった。
イニシャル・マスタングの復活 1977年のamtは、後の市場にとってたいへん意義深い業績を遺すことになった。
そのボックスデザインから「カウントダウン・シリーズ」と呼ばれる一連の再販プログラムは、amtがこれまで手がけてきた数々の旧アニュアルキットをノスタルジックなものとして再販するシリーズであったが、そのラインナップにはとうに金型が失われたはずの1966年式フォード・マスタング・ハードトップが含まれていた。
1967年により大きく、よりマッシブにスタイリングを変更される以前のイニシャル・マスタングのアニュアルキット金型はハードトップ、ファストバックともすでに失われて久しかった。とくに初弾の’64½から’66へと軽微な改修を経たのみだったハードトップの金型は、1966年のうちにジョージ・バリス・デザインのソニー&シェール・カスタム・コンバーチブルへと不可逆的な大改造を受け、二度とファクトリーストック状態での再販がかなわないものとなっていたはずだった。
しかしamtは、1969年のオールアメリカン・ショー&ゴー・キャンペーンの折、’66マスタング・ハードトップのプロモーショナルモデル用金型による成型品を単純にばらしたまま組立キットに仕立てることで「ワイルドフラワー・シリーズのピオニー・ポニー」として商品化していた。
このキャンペーン用の賑やかし商品から、amtはイニシャル・マスタングのキットにいまだ力強い需要があるとのフィードバックを得て、プロモ用金型を本格的な組立キット用金型に仕立て直すという初めての試みに着手、みごとに’66マスタング・ハードトップのファクトリーストック・キットとして甦らせることに成功する。
カタログ品番2207をつけたこのカウントダウン・マスタングは発売されるや市場から諸手を挙げた歓迎を受け、イニシャル・マスタングがフォード・ディーラーのショールームを飾っていた頃の姿をもっとも色濃く写し取った唯一のキットとして、21世紀の今日に到るまで何度も再販され、リー・アイアコッカの自伝をも上回るフォード・マスタング伝説の生々しい証言者として、その役割をいまこの瞬間も果たし続けている。
英レズニーによる組織の変質をその身に許す直前にamtが放ったこの試みは、やがてアメリカンカープラモ趣味そのものを特徴づけるひとつの大きな流れ――アニュアルキットのようにいま現在に縛られることなく、一部から懐古的と謗られようと、間違いなくアメリカンカーが輝かしかった時代を忠実に模型として甦らせるのだというアプローチ――の力強い湧水点となった。
模型による実車のプロモーションが否定され、デトロイトの一次資料へのアクセスが不可能になっていく時代の趨勢は、mpcにとってさえ今後抗いがたい現実となっていくが、その困難は模型が実車の輝かしさに少しでも近づくにはどうしたらよいかを模型メーカー各社に考えさせるシリアスな契機ともなって、アメリカンカープラモの開発に身を置く「諦めきれない者たち」の技術を今後ますます鍛え上げ、洗練させていくことになる。
1977年はアニュアルキット制度の終焉であると同時に、いまのわれわれを取り巻く豊かな状況をやがて芽吹かせる種が、寒々しく荒れた土地に蒔かれた年でもあったのだ。
※今回は、amt製ピータービルト359の画像を、読者の方(匿名希望)からご提供いただきました。ありがとうございました。
写真:畔蒜幸雄、羽田 洋
文・ bantowblog/提供元・CARSMEET WEB
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