一方、女院は一条天皇生母詮子が落飾するに際して与えられたのが最初だが、やがて天皇の生母でなくとも乱発されることになったが、むしろ、夫人たちにとって女院になるかどうかが重んじられたどうかのメルクマールになった。

また、皇后の子だから天皇になるというよりは、天皇の母だから女院になることも多かった。

皇后などに準じるという「准后」というのも同じで、ついには北畠親房や足利義満、醍醐寺三宝院満済のような男性にまで与えられた。最後の足利将軍・義昭も豊臣秀吉にこの称号を斡旋してもらい幸せな晩年を過ごした。

「皇后」の称号は仁孝天皇妃に遺贈されたことで復活し、明治以降は海外の王妃や皇妃を意識して定着して現在に至っている。だが、こうした西洋式の皇后は歴史的な観点からは離れたものだ。また、皇后は伝統的には殿下であって陛下というのは明治以降である。

さらに、現実の間題として、これが単なる天皇の配偶者なのか、それ以上に職業的義務を伴うものなのか、さらには、皇室というファミリーの「女将さん」としての役割はどうなのか、難しい問題もいろいろあり、昨今の皇室をめぐる苦悩のなかで矛盾が顕在化しているのも事実である。

(本文は拙著「365日でわかる日本史」清談社の一部に加筆した)