真言宗の開祖・弘法大師空海(774年-835年)の言葉に、「心を楽にする秘訣は弱みをさらけ出すことである」というのがあります。人間、弱さも強さも全て曝け出し、何一つ隠し事無しという所まで行ったらば、それは一つの強さに転ずるのだろうと思います。「あれも隠し、これも隠し」では、恐らくそうした境地には至らずに、心は楽にならないでしょう。
例えば犯罪者が罪を全部認めて刑務所に入る場合、本人は大変かと言うとそうではなくて長い逃亡生活の果てに、やっと捕まった、とほっとするような局面があるのではないかと思います。人から隠れているとか人に隠しているといったことでは、常時自分の心が休まることはありません。従って何かから逃げ回らねばならない人というのは、やはり弱いのだろうと思います。
「子供が井戸に落ちそうになっていれば、危ないと思わず手を差し延べたり助けに行こうとする」人として忍びずの気持ち、即ち「惻隠(そくいん)の情」というのは、人間皆生まれ持ったもので本来そうした気持ちが備わっているはずだ、と孟子は説きます。人は弱さを見せたらば、多勢が助けてくれましょう。乞食などは正にある意味全てを曝け出しているわけで、あの人は何も食べる物が無くて可哀想だ、として時に誰かが助けるものです。
『論語』の「雍也(ようや)第六の二十三」に、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」とあります。知者というのは強みを沢山持ちながら常々様々考えている状況で、結局ある種楽しみは出来るものの心は楽でなく長寿ではないのです。「知者は楽しみ、仁者は寿し」という孔子の言に、深い意味が見出せましょう。
国語辞書で「無手勝流(むてかつりゅう)」と調べてみれば、「戦わないで策略を用いて勝つこと。自分であみだした流儀によること。転じて、自分勝手にやること。自己流」と共に、次の故事が書かれています――剣豪の塚原卜伝(ぼくでん)が琵琶湖の矢橋(やばせ)の渡し船の中で、乱暴な武士から真剣勝負を挑まれたときに、相手をだまして舟から小島に降ろし、そのまま舟を出して、「戦わずして勝つのが無手勝流だ」と言ったという。