刺身は代表的な日本食であり、日本を代表する海鮮料理です。
刺身は言ってしまえば「魚を切って生のまま食べる」料理であり、比較的単純な料理に見えますが、刺身が今の形になったのは江戸時代のこと。
それではそれまでは刺身はどのような形だったのでしょうか? また江戸時代には刺身はどのように楽しまれていたのでしょうか?
本記事では江戸時代以前の刺身が現在とどう異なっていたかと、江戸時代に刺身がどうやって食べられていたかについて紹介します。
この研究については水産大学校研究報告第60巻第3号に詳細が書かれています。
かつては酢を付けて刺身を食べていた
魚を生で食べるという文化は漁村などにはありましたが、都市部で魚を生で食べられるようになるのは室町時代を待たなければなりませんでした。
何故なら、それ以前の時代では流通があまり発達しておらず、都市部の人が新鮮な海産物を手に入れるのは難しかったからです。
1489年頃の四条流包丁書には鯉、鯛、鱸を刺身としてワサビ酢、ショウガ酢、タデ酢で食べることが紹介されており、その頃には現在の刺身の原型が出来ていたことがうかがえます。
ただし刺身を口にすることが出来たのは貴族や位の高い武士だけであり、都市部の庶民が刺身を食べることは出来ませんでした。
また刺身の名コンビである醤油は、安土桃山時代にようやく原型が出来ました。
しかし醤油の生産は近畿地方に集中しており、江戸では「下り醤油」と呼ばれる近畿地方から流通してきた醤油が存在していたものの、その価格は非常に高いものだったのです。
たとえば1650年頃には、米一升の価格が26文であるのに対し、下り醤油は一升あたり78〜108文もの高価格で売られており、とても庶民に手が届くものではありません。
そのようなこともあって、江戸時代初期まで刺身に醤油をつけて食べることはありませんでした。
なお「下り醤油」の生産量は需要に全く追いついていなかったということもあり、江戸時代中盤では下総国(現在の千葉県北部)の銚子や野田といった地域でも醤油づくりが盛んになります。
そして幕末には「下り醤油」に代わって、これらの地域で作られた醤油が江戸で多く使われるようになったのです。