バイデン氏はイスラエルのヒズボラへの攻撃について側面支援するのみならず、イランがイスラエルに行った攻撃に対しても「対抗措置を取る権利がある」と述べているのは倫理的観点が強いわけですがこれを法のルールに基づいた判断にシフトさせればバイデン氏の立場は微妙になりかねません。
「法の支配」とは、専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束するこ とによって個人の権利・自由を擁護することを目的とする原理(防衛研究所ウェブより)とあります。平たく言えば権威主義はだめよ、民主主義的に決められた権利と義務に則って行動して下さね、ということかと思います。
但し、近年、特に複雑になったと感じさせるのは人の権利の主張が無限の広がりを見せている点です。つまりマイノリティーの主張でありそれを法で保護する動きであり、それにより法体系に基づく人の権利と義務全体に歪みが生じているのです。つまり片方を法で新たに認めれば片方は譲歩しなくてないけないのです。
法は万全か、といえばそんなことはないのです。法律を生業としている方々には申し訳ないのですが、法律はすべてを満足することはできません。なぜなら常に不備が起き、常に新しい切り口ができるのです。故に世の中で裁判が無尽蔵に起きるのです。
日本ではケンカすると「訴えるぞ!」という脅し文句が出てきます。当地でそういわれれば「どうぞ」と返されます。理由はつまらない内容の訴状は裁判所判断まで行かないのです。判事は忙しい、だからその前にセトルメント(和解)せよという方針で様々な落としどころを探る仕組みが存在します。この和解こそ倫理的観点に沿った妥協であります。法律をギシギシ突き詰めてもなんら解決策にはならないということです。
法は必要、ただし、その解釈は時代とともに変わります。そこが人間的であり、ある意味倫理的かもしれません。法律の文言を信じて裁判所に訴えても世論の趨勢に押され負けることもあります。