1973年、キープ・オン・トラッキン

石油で走るアメリカンカー、石油でできたアメリカンカープラモ。その両方に決定的な打撃をあたえる事態が1973年に勃発した。

1973年10月、アラブ石油輸出国機構は、同年のヨム・キプール戦争においてイスラエルを支援した国に対し、全面的な石油禁輸措置をおこなうと発表した。標的とされた国はまずカナダ、日本、オランダ、イギリス、そしてアメリカ。のちにポルトガル、ローデシア、南アフリカへと対象は拡大し、1974年3月に同禁輸措置が解除されるまでのわずか半年足らずのうちに、原油価格は1バレルあたり3アメリカドルから12アメリカドルにまで跳ね上がった。

アメリカでの石油価格は世界平均を大きく上まわり、短期的にも中長期的にも世界経済に深刻な影響を及ぼした。

以上はいわゆる第一次オイルショックについての簡単なおさらいである。冒頭に述べたとおり、石油の問題はアメリカンカーおよびアメリカンカープラモに直接影響する、特筆すべき一大事であった。

加えて本連載第33回に記した自動車そのものへの規制、そして俗にいうドルショック――時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンが突然(それまで世界で唯一金との交換が可能であった)アメリカドルの兌換を停止すると表明したことに端を発する世界的な通貨体制の変化――によってもまた、アメリカンカーは決して元には戻れないほどの影響を受けた。

それまでアメリカの繁栄を支えてきたドルの価値は1970年代を通じて下落し、アメリカからの輸出品の価格は上昇、逆に輸入品が安くなることで自動車を含むアメリカ製品の相対的な競争力は低下の一途をたどった。

子供向けの恐竜図鑑をひらけばそこに必ず名をつらねるような獰猛な獣脚類をスーパーカー/マッスルカーになぞらえれば、タイラントたちは次々と滅びのさだめに従った。フォード・マスタングは1973年式を最後に、模範的に燃費がよく、市場性の高いマスタングIIへと置き換えられた。

マーキュリー・クーガー、ダッジ・チャージャーもやはり、1974年からはパーソナルラグジュアリーカーへと変質を遂げ、サンデーレーサーたちの素敵にカジュアルな恋人だったシボレー・ノヴァは、よそよそしい高級コンパクトカーになってしまった。

ダッジ・チャレンジャー、プリマス・クーダ、そしてポンティアックGTOはいずれも1974年式を最後にすべてキャンセルされた。唯一生き残ったかにみえたシボレー・シェベルからは誇り高きスーパー・スポーツのバッジが剥ぎ取られてしまった。

環境への配慮を盾に「息をするな」と命じられたも同然のハイパフォーマンスV8エンジンたちは、場合によっては肺を片方失ったような直列4気筒に取って代わられ、せまくなった市販車のフードの下から邪険に追い出された。車が生活と切り離せない者たちにとって好ましい変化も、わくわくする車とその模型の登場を心待ちにしている者たちにとっては、大きないちごの載ったケーキがただのロールケーキに化けてしまったようなものだった。

大きなモノから小さなモノまで!二極化進む業界にデビューした新星の意外すぎる正体!【アメリカンカープラモ・クロニクル】第34回
徐々に大きくなっていった初代マスタングの最終年、1973年型マッハ1。欧州車的な感覚を打ち出して登場し人気を集めたマスタングであるから、ダウンサイズを望む声も多く、それに応えたのが翌年型からのマスタングⅡであったが、初期こそ販売は好調であったものの、その勢いはすぐに萎んでしまった。やはりアメリカ人の感覚としては、ある程度の車体の大きさとV8エンジンが不可欠というのが、1950-1960年代を通して浸透していた結果であろう。(画像=『CARSMEET WEB』より 引用)

マシンのハイパフォーマンスはその模型にも熱いクライマックスをもたらすが、環境にもやさしい経済性の高さはどう転んでも模型映えするキーではなかった。個人が強い思い入れを武器に、なにもかも一からスクラッチビルドするならばともかく、これはひと箱で完結するよう大量生産されるキットの商品性をめぐる話である。経済車がこうしたキット=商品として成立するためには、時代や文化のアイコンと呼べるまでにその存在が昇華しているか、あるいは多くの人の私的なノスタルジアと強く結びついているか、そのどちらかしかない。

アニュアルキットは秋冬恒例の心ときめくイベントではなく、いよいよ形骸化した慣習になっていった。デトロイトの新車からは、発表のその日を迎えるまで秘匿義務が課されるような神秘が失われ、それをうやうやしく取り扱う模型メーカーからもまた、トップシークレットエージェントとしての自信と風格が失われた。

1960年代を彩ったなにもかもが、アメリカンカープラモ愛好家にとって懐かしく美しい思い出になりかけていた。全米各地で引きも切らなかったモデルカーコンテストは片手で数えるほどとなり、キットに負けじと小遣いのやりくりを難しくしていたモデルカー雑誌は次々に廃刊、それでもこのホビーを諦めきれない大人たちは、これから輝きを失っていくであろうキットの未来を悲観してか、古いアニュアルキット・ハンティングを静かに本格化させ、地方都市のホビーショップや雑貨店にいつまでも売れ残っていたキットはひとつ、またひとつと姿を消しはじめた。

古いキットの品番のあとに当時の価格、たとえば1ドル49や1ドル70などと明記された箇所を、勘のいい店主たちがこっそり黒マーカーで塗りつぶしはじめたのもこの頃からだったとベテラン愛好家のひとりは筆者に直接証言している。

「そうとも、値段を塗りつぶしたのは僕だ。そうしておかないと抜け目のないやつがやってきて、昔の値段でキットをかっさらおうとするんだ……僕が店を閉めたのは、もっとずっと後のことだけどね」

農機トイから大型トラックのプラスチックキットへ
ドラマチックな夢が失われたところで日々の暮らしが決してなくならないように、アメリカンカープラモの世界でもにわかに盛り上がった州間長距離輸送文化への熱い視線――ビッグリグのキット化はどんどん進行していった。それはこの頃唯一の明るい話題であったといえるだろう。

amt、MPCはもちろんだが、1973年、ここに新顔が加わった。精密かつ幅広いカバレッジを誇る農機ダイキャスト・トイによって独自に築き上げた寡占市場の地盤から、農機もトラックも手がけていたインターナショナル・ハーベスターの拡張ライセンスを抽出・活用して、1/25スケールの大型組立キット市場にいきなり参入したフレッド・アーテル・アンド・カンパニー(以下アーテル)である。

この新参者のトラックキットは新鮮な驚きに満ちた意欲的なものだった。第一弾となったインターナショナル・ハーベスターCO4070Aキャブオーバーには、当時の水準としては最高と呼んで差し支えない詳細な組立説明書を含め、斬新なアイデアが多数含まれていた。続くインターナショナル・ハーベスター・トランスターF4270コンベンショナルは間髪を置かずにリリースされ、ほどなくインターナショナル・ペイスター5000建設用ダンプトラックのような驚きの大物までもが追加された。

興味深いのは、アーテルのラインナップにはMPC金型のマックトラックがいくつか、ときには姿を変えて含まれていたことだった。パッセンジャーカーキットの開発に較べ格段に手間とコストがかかるはずのトラックキットだが、新参アーテルがみせた怒濤の急展開には、かなり早い段階からMPCとのなんらかの「協調」があったとみて間違いない。

1980年以降のアメリカンカープラモ事情にある程度明るい読者であれば、ここで蒔かれたコラボレーションの種子が後年いかに豊かな花と実をつけることになるか、よくご存知のことと思う。(しかしそれはもっとずっと後の物語である)

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新参アーテルのボックストップはデザインテーマを共通とした正方形で、大きく存在感のあるシリーズ通し番号からも「ラインナップを充実させて組立キット・ホビー市場に橋頭堡を築く」という強い意志が感じられる。農機ダイキャストトイの寡占で保有するライセンスも幅広く包括的なアーテルは、amtが始めた大型トラック・キット市場に「主役を張れる」くらいの商機を見出していたわけだ。写真は、キャブオーバーとコンベンショナル(ボンネット型)のトラクタに続き発売された、ペイスター5000ダンプ。光って見えるのはシュリンクがかかっているためである。(画像=『CARSMEET WEB』より 引用)

アーテルが独力のみで既存勢力に挑みかかるような挑戦をしなかったことからもわかるが、やはりこのトラックキット開発にとって最大のネックは投入すべきコストの問題だった。簡素なキットでお茶を濁すことができないのである。

クラス8の大型トラックは前例のなかったモデリング・エンジニアリングの挑戦であり、それが魅力あるテーマであればあるほど精密さは高度に要求され、金型とパーツのかさはひたすら増えてゆく。事前の入念な計画にもとづく複数社の協調はそうしたコストとリスクを適切に分散させるが、そうでない会社、たとえばamtにとっては、ひとアイテムを増やすごとに重い負担がつきまとった。

スーパーカー/マッスルカー・ムーブメントと同様、ある日突然大型トラック・ブームの潮が引いてしまったらビジネスはどうなるか、原油高による原材料高騰がこれ以上進行すればどうなってしまうか、経済の専門家でなくともそれは明白な不安であった。そんな懸念を現実のものとして炸裂させてしまいかねない、いわば手榴弾の安全ピンのような存在が、このときよりによってamtから抜けようとしていた。

ビッグリグキットの仕掛け人であり、ここまでamtの業績回復に尽力しめざましい効果をあげたトム・ギャノンの退任であった。

名は体を表す、ロゴもパッケージデザインもまたしかり
どこか過去への思いを断ち切るように、MPCはコーポレートアイデンティティーであるロゴを新しいものにかけ替えはじめた。1973年から1974年にかけて、大文字のMPCは小文字のmpcとなり、amt譲りのバーチカルデザインは平凡な横組になった。本連載でも以降MPCについてはこの変更に倣い、mpcと小文字表記することとしたいが、一見ささいなことに思われるこうした変化が、組織の本質的な変化をあらわしていることはよくあることだ。

モノグラムもちょうどこの頃、ボックスアートに印象的な「ホワイトボックス」を全面的に採用していた。清潔な印象の白バックに、キットの完成見本を大きく写真一枚で見せるスタイルで、モノグラムといえばこのデザインの印象が強いベテラン愛好家も少なくないだろう。

才人トム・ダニエルの活躍によって、玩具的なワイルドさと正調のエンジニアリング・マナーをあわせ持つショーロッドの数々を次々に発表しては、幼年により近い歳頃の者たちの心と財布をがっちりつかんで離さなかったモノグラムは、この変更を境にやや沈静化し、硬派なスケールモデル路線(ギミック色を薄め、テーマは架空であっても実在するエンジニアリングにより忠実な方向性)へとシフトしていった。

ホワイトボックスの写真箱は、ワイルドな箱絵に描かれたとおりの物体がそのまま箱に入っていないことに腹を立てる、少年の保護者たちに向けた穏当な企業コンプライアンスの産物ではあったが、同時に企業トップの交代へむけた新しい装いのお披露目でもあった。amt社長の座を退いたトム・ギャノンが、正式には1975年を待ってモノグラムの新しいリーダーに就任するのである。

MPCのボックスからは新しいmpcロゴと入れ替わりにゼネラルミルズの名が消え、モノグラムはホワイトボックスへの刷新と同時にマテルの名が姿を消した。両社はいずれも両ホールディングカンパニーの傘下にあったが、実務体制は大きな変化を迎えていたのである。

※今回、アーテル製インターナショナル・ハーベスターのキット2種「ペイスター5000ダンプトラック」「ペイホーラー350コンストラクショントラック」、MPC製NASCARキット2種「バディ・ベイカー NASCARチャージャー」「ヤーボロー/ジュニア・ジョンソンNASCARシェビー」は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。
※また、再販版のMPC「ボビー・アイザック フォード・トリノ・ストックカー」の画像は、有限会社プラッツよりご提供いただきました。

ありがとうございました。

文・bantowblog/提供元・CARSMEET WEB

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