敵対者を作らなければよい、という発想はあります。しかし、現在進む自民党総裁選の各候補の主張を見ても面白いことが起きています。本来同じ政党仲間のはずがあのような論戦を繰り返し、それぞれの考えと主張をし続けることで候補者双方に敵対関係の意識を醸成します。保守派から中道派までその温度はバラバラ、支持層もバラバラにするのです。これは保守派にしろ中道派にしろ、将来、当選者に対する反発を生むことになり、当然、敵対者が生まれるのです。自民党が分裂の芽を生み出しているのです。

同様にトランプ氏の2度目の暗殺未遂事件は犯人がトランプ氏の対ウクライナ政策案について不満を抱いたからともされています。敵は常に存在するのです。

昨年、アメリカ、ダラスに行った際、ケネディ氏が暗殺された場所に行きました。犯人がどこからどう狙撃したか見ましたが、狙おうと思えばそんな場所は無数にあると言わざるを得ないのです。あの時、オープンカーではなければまだ犯行の可能性は低かったかもしれません。では犯人から見てターゲットが常に絶対防備されているかといえばそんな可能性はほとんどないのです。

私が恐れるのは国家元首級や戦闘相手といった犯人にとって明白なターゲットに限らず、ちょっとしたいざこざ相手を報いる手段が我々の社会にはあふれ、高度な手段も可能になってきている点です。殺人へのハードルが明らかに下がっています。チベット密教の述語である「ポア」とは嫌な奴を抹消せよとの意ですが、人間の理性のブレーキが利かなくなっている点に極めて大きな懸念が生まれています。

では現代において敵はどうしてできるのか、といえば国際関係や人間関係などがこの数十年間で大きく発展し、複雑化したからだと考えています。国際関係はグローバル化と地域や経済を通じた同盟づくりが進みました。日本が加入している各種同盟の集合を合わせていくと結局誰が友達で誰が敵かすら不明瞭になります。敵の敵は仲間ではなく敵かもしれない時代になったのです。人間関係もSNSでつながり、お互いの影響力がぶつかり合います。組織の中では常に醜い人事などの争いごとが起きています。憎しみが絶えず、その仇の取り方が問題である、ということです。