先月9日の「被爆79周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は「式典に、イスラエルが招待されていない。そのことに抗議して、アメリカのエマニュエル大使は式典に参加しなかった。日本を除くG7やEUの駐日大使も連名で同じ趣旨の懸念を長崎市に伝えた。これらの国の大使は式典に出席しなかった。ところが、パレスチナのほうは式典に招待されている」(舛添要一)ものでした。此の件を巡っては様々な観点から色々な指摘が行われ大変な議論を巻き起こしたわけですが、私自身は何を差し置いてでも、人類史上最初で最悪の無差別大量殺戮に繋がった民間人に対する2発もの国際法違反の原爆投下を日本に行った米国、当国の大使が長崎という原爆投下地でも強く平和を希求して深く祈り多数の原爆犠牲者に追悼の誠を捧げねばならなかったと思っています。
米国という国の首脳陣が漸く広島・長崎を訪れるようなったのは、ここ15年程度の話です。2009年8月に着任されたジョン・V・ルース元駐日米国大使が「米国の大使として初めて、2010年に広島を、また2012年に長崎を訪問して以来、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念する式典に原則毎年参加し」(美根慶樹)始めたものです。本来であれば、米国は自らの残酷非道な行為自体をもっと真摯に反省すべきであり、上記式典の欠席など以ての外で、私に言わせれば全く反省が出来ていないのではとすら思っています。少なくとも米国は原爆投下の当事国なのですから、凄惨な歴史的事実を直視し続け、その責務をきちっと果たして行くべく、大いに猛省せねばならぬと思うのです。我々自身は第二次世界大戦後の米国による歴史的事象の数々を冷静に見、誰が幸せになったのか・何が良くなったのかにつき思いを致すべきでしょう。人間の精神性は常に進歩と退歩を繰り返します。だからこそ初代ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが言うように、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」のです。今尚世界中で続く戦争は深刻な惨状を齎しています。