キリスト教では人類始祖アダムとエバが神の戒めを破って罪を犯したと教えている。それを原罪と呼ぶ。原罪を背負わない人間は誰一人として存在しない。その意味で、人間は過去も現在も全てが同じだ。未成年者に性的虐待を冒す聖職者も、そうではない聖職者も同じルーツを背負っていることになる。

そこで性犯罪を犯す聖職者に対し、そうではない聖職者は批判し、罰することもあるが、それ以上に罪人の聖職者への理解、同情が優先するケースが多い。

前教皇ベネディクト16世も独ミュンヘン・フライジング大司教時代、教区で性犯罪を犯した神父を他の教区に人事することで隠蔽したという疑いがもたれた。すなわち、「われわれは全て罪人である」という教えが聖職者の性犯罪を隠蔽する時に働く教会側の心理的状況ではないか。教会では過去、現在も性犯罪を犯す聖職者へのエンパシー(共感)がその犠牲者へのそれより強い傾向が見られるのだ。

ニーチェは人間は原罪を背負う存在だというキリスト教の根本的教えを「私たちは全て、犯罪者だ」と表現した。皮肉なことに、「原罪を持つ存在」ゆえに、そして「私たちは全て犯罪者である」ゆえに、他者の罪に対して寛容な対応を強いられてきた。同時に、それは聖職者の性犯罪に対する教会側の隠ぺい工作の動機ともなってきたのではないか。イエスの「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、この女に、まず石を投げよ」(「ヨハネによる福音書」8章)という聖句を思い出す人もいるだろう。

ボリビアの詩人フランツ・タマーヨは、「究極の悪は、悪を見ていながら、口に出して言わないことだ」と述べている。未成年者への性的虐待を犯した聖職者や人間を見ながら、口に出して言わない「隠蔽」行為は究極の悪というのだ。原罪説を盾に他者の罪だけではなく、自身の罪をも隠蔽する聖職者にとって厳しい言葉だ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年8月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。