アメリカ合衆国には、かつて皇帝が存在していた。彼の名はジョシュア・エイブラハム・ノートン、1859年から1880年に亡くなるまで自称として皇帝の地位に就いていた。彼の死後に合衆国皇帝を名乗り出るものがなかったため、現在まで唯一の合衆国皇帝となっている。

 彼は、1818年にイギリスで生まれた南アフリカ育ちのユダヤ人であった。1849年にアメリカのサンフランシスコに移住し、父親の遺産によって不動産投資を行ない、その資産を増やすことに成功した。

 しかし、値上がりを見越して買い占めたコメの価格が突如として暴落し、商人に契約破棄を要求など裁判にも発展するが敗訴となり、全財産を失ってしまった。邸宅なども競売にかけられてしまい、彼は町から姿を消すこととなった。

 ところが失踪から1年後の1859年、ボロボロの軍服に羽根つき帽子、日本の番傘とサーベルを手にした格好でノートンは再びサンフランシスコの町に現れた。この時のノートンは、アメリカの政治体制に問題があるとして自らが皇帝となり国を導かなければならないと考えるようになったという。彼は、各新聞社に「アメリカ合衆国皇帝への即位を宣言する」といった投書を送り付けるなど、大々的な即位宣言を行なった。

 多くの新聞社が一蹴する中で、サンフランシスコ・コール紙のみが(ジョークとしてだが)これを掲載、すると新聞は飛ぶように売れることとなり、ノートンのアメリカ皇帝即位は瞬く間にサンフランシスコ中に知れ渡ることとなった。

 だが、すでに破産していたノートンの皇帝生活はきわめて質素なものであり、毎朝ボロアパートで目を覚まし、家賃50セントを大家に支払って外出、隣のホテルのロビーで新聞を眺めたあと、公務と称するサンフランシスコ市内の視察、いわば散歩を行なった。彼は、そこで臣民たちとの交流を深めつつ、彼らから1人50セントの税金を徴収していたという。この税収については無理やり取ろうとせず、払う意思の無い相手に対しては笑って許していたと言われている。

 また、「ノートン皇帝御用達」という宣伝を近所の店に許す代わりに花や服などの献上品を受け取り、レストランにおいて無料で食事ができ、列車に乗り放題のパスポートをもらうなど、多くのサービスを受けていた。

 ある時、独自で国債を発行して銀行に持っていた際には、5ドルに換金することにも成功していたが、当然ながらこの国債は効力が無いため、銀行員のポケットマネーで支払われていたという。

 毎日取材も行なわれており、新聞にはノートンのインタビュー記事をもとに「本日の勅令」と題したコラムが掲載されていた。内容は、アメリカ二大政党の解散命令といったものや国会議事堂前の道路に街灯を設置せよといったものなど様々であった。

 サンフランシスコにおいて、彼は非常に親しまれた存在として賛同を得ていた。中でも、低賃金で働くために雇用を奪っていた中国系移民に対する白人の暴動が頻発していた時期には、たまたま居合わせた際に間に入り頭を垂れて祈りを唱えたという。すると、暴徒たちは行ないを恥じて解散してしまったという。

 さらに、1869年にはサンフランシスコとオークランドをつなぐ吊り橋をかけろ、という勅令がなされた。約2700kmという長距離のつり橋は、当時は現実的な構想ではなかったものの、なんと彼の死後数十年になって勅令とほぼ同じルートで巨大つり橋の建設が始まり1939年に完成した。完成と同時にこの橋は、「ノートン橋」という記念碑が建てられた。

 彼の死後は、市民たちによって自発的な賃金が投じられ葬儀が行なわれ、ウッドローン墓地に埋葬された。彼の墓石には「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」と刻まれ、愛された存在として現地の歴史に刻まれている。

【文 ナオキ・コムロ】

文=ナオキ・コムロ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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提供元・TOCANA

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