少なくとも、財産の多寡や学歴の高低といった世俗的成功者をして、価値ある人間あるいは価値ある人生を送った人だとは、大多数は評価しないのです。如何なる人を評価するかと言うと例えば、アフリカの地で沢山の人命を助くべく尽力し最後は己の命まで捧げて逝去した、ノーベル平和賞受賞者(1952年)アルベルト・シュバイツァーが挙げられましょう。また同様に、黄熱病と闘い自分を捧げた野口英世も未だ以て評価され続けています。あるいは功成り名遂げた人が、その成功を社会還元するという模範には、昔で言えば鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、近年ではビル・ゲイツやウォーレン・バフェットが挙げられましょう。カーネギーに例すれば、カーネギー財団やカーネギー研究所、カーネギーメロン大学やカーネギーホール等をつくり、人類に対する貢献活動を積極的に行った結果において、後世に多大な影響を及ぼし続けています。
こうした在り方にこそ、人間の価値があるのです。世の為人の為どれだけ汗をかいて犠牲を払い如何なるプラスを齎したか、が大事だということです。最後に、松下幸之助さんの御著書『続・道をひらく』の中の一篇、「自分のもの」より次の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します――自分の身体は、自分のものであって、自分のものではない。血のめぐり、内臓の働き、どれ一つをとってみても、自分の意志によって動いているものはない。つまり、大きな自然の恵みで生かされているいわば天からの授かりもの。天から預っているものである。自分の金、自分の仕事、自分の財産。自分のものと言えば自分のものだけれど、これもやっぱり世の中から授かったもの。世の中からの預かりものである。どんなものでも本当は、自分のものというのは一つもないのである。(中略)身体も金もそして仕事も、いたずらに粗末に扱ってはいけないし、おろそかに考えてはいけない。大事に慎重にそして有意義に、その働きを生かしたいのである。