夏目漱石、谷崎潤一郎、室生犀星などの昔の文士にとって、羊羹は、菓子というモノではなく、高価な器に盛って、そこで創造される美的感興というコトを楽しむものだったのである。

さて、羊羹といえば虎屋である。虎屋は、室町時代後期の創業とされる菓子の老舗であって、現在でも、その羊羹は贈答品の代表格であろう。実は、虎屋は、和菓子に関する学術雑誌として「和菓子」を定期発行しているほか、虎屋文庫という菓子の資料室を運営していて、そこに、2000年12月から続くウェブ上の連載企画として、「歴史上の人物と和菓子」があり、先にあげた文士も紹介されているのだ。

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虎屋は、長い歴史をもつ高級和菓子専門店として、文化的事象である菓子の享受というコトに事業基盤を定位させているのである。このことは、虎屋の経営理念が「おいしい和菓子を喜んで召し上がって頂く」コトとされているのにも符合する。「おいしい和菓子」というところに、図らずもモノ作りの矜持が出ているが、真の矜持は「和菓子をおいしく喜んで召し上がって頂く」コトにあるというべきある。

羊羹が消費されるコトにおいて、それが虎屋の羊羹でなければならないという必然性がブランドなのである。ブランドは、モノに刻印されておらず、この機会に、あの方に差し上げるのは、この虎屋の羊羹でなければならない、この場面で、あの器に盛るのは、この虎屋の羊羹でなければならないというように、モノが消費されるコトに刻印されている。つまり、虎屋のブランドは食文化というコトのなかにあって、羊羹というモノにはないのである。

モノの品質は食文化というコトによって規定されるにしても、その基底にあるモノを作るには、最上等の素材と最高度の技術を必要とするに違いない。この文化的に規定された品質を備えたモノこそ、真に「おいしい和菓子」なのである。

これは羊羹に限ったことではない。モノ作りを自負する日本産業に、貧しき時代の効率的なモノ作りとしての未来はなく、日本文化の未来に、昔の文士が形成していた社交界の復興はない。では、いかにして、ブランドとしてのコトに規定されたモノを創造できるのか、ここに日本産業の課題があるわけだ。