かように兵士の数だけ物語があり、兵士の周辺にも家族から知人まで様々な想いをもって、死ぬことを定められた兵士たちを温かく見守っていた人たちがいた。そういった中で戦前に戦闘機に乗り込んでいく兵士の背中を押していた知識人が、戦後には変節して戦死した特攻隊員を罵倒する側に回った様々な非情が存在する。

著者は特攻隊員が戦後に侮辱されたことを二度目の戦死と位置づけ、国会図書館の資料などを読み漁りながら、一つ一つ論拠を確認した上で、特攻隊員を政治利用した戦後左派知識人の嘘や偽善性を糾弾するのである。

「人間は生まれながら国民となるのではありません。国家の歴史を引き受けた時に国民となるのです」

私たち国民にとって歴史とは、「我が国を我が国たらしめるために生きて死んでいった方々への共感と共鳴を礎としなければならない」と著者は言う。私たちは過去、現在、将来を貫く垂直の歴史軸に生きており、特攻隊として散っていった兵士たちの死と直前の心情に共感し、また共鳴することで、歴史を我が事として消化出来るのである。

それは先人から引き継いだ日本国の大切な物語であり、特攻隊の残した数々の遺書は私たちの情緒に訴えかけるものである。そして、この共感と共鳴は、後に続くを信じて後世の人々に想いを託した兵士たちと、現代を生きる私たちとの無言の対話でもある。