明智光秀は、織田信長の重臣として活躍しながら、後年に本能寺の変を起こして信長を自害させた人物として知られている。彼は自身の出自に関する証言をほぼしておらず、またそれについての一次資料も残っていない。また、後年は羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れて死亡したといわれるが、山崎の戦いで敗れ落ち延びる最中に京都の小栗栖(おぐるす)で土民の竹槍により命を落としたという説があるなど、その死亡についても明確なものがなく非常に謎が多い人物でもある。

そのような明智光秀には、「南光坊天海」だったのではないかという説が存在する。これは、小説家須藤光暉の著書『大僧正天海』(1916)にはじまるとされる。天海は、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した天台宗の僧であり、徳川家康のブレーンとして朝廷や宗教の政策に深く関与し、徳川幕府の基礎を築いた人物と言われている。天海は100歳を超えた長命であったとも言われるが、その前半生の経歴は明らかになっていない。

同じ時期に歴史の表舞台へ出てこない光秀と天海が、同一人物ではないかという説には、いくつかの根拠とされるものが挙げられている。

「関ヶ原合戦図屏風」に天海らしき人物が描かれているというもの、二代将軍徳川秀忠と三代将軍徳川家光の名にある「秀」「光」の字が残されているというもの、日光東照宮に明智家の家紋である「桔梗紋」が使用されており、そして中禅寺湖と華厳の滝そして日光東照宮を見下ろす地点に残る「明智平」と呼ばれる地名が存在していること、など徳川家と光秀の関連や幕府への寄与を示したとされるものが各所に残されているといわれている。

当然これらには、屏風は幕末に描かれたものであり、秀は豊臣秀吉、光は臨済宗の僧以心崇伝が選んだ字であること、桔梗紋は織田家の木瓜紋の見間違いであり、明智平の地名の由来は伝承にすぎない、といった反論もある。

一方、三代将軍家光の乳母に採用され、のちに権勢を誇った春日局は、光秀の甥であり重臣でもあった斎藤利三の娘であったことから、光秀の縁者が次期将軍の乳母になっているという事実がある。しかも春日局が天海と対面した際に、「お久しぶりでございます」と挨拶したという記録も残っているというのだ。

かつて、テレビ局で光秀と天海の筆跡が鑑定され、その結果身内か師弟関係にあったものという鑑定がなされたという。これについては天海に初代と二代目が存在し、初代を光秀、二代目を光秀の家臣で娘婿でもあった明智秀満が演じたのではないかという説も考えられており、これが驚異的な長寿であったいう天海像を生み出したとも言われる。

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文=にぅま(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

提供元・TOCANA

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