山田浅右衛門(あさえもん)とは、 江戸時代において刀剣の試し斬り役である「御様御用」( おためしごよう)を務めた山田家当主の代々の名跡である。特に、死刑執行人を兼ねていたことでも知られ、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門などの異名で呼ばれていた。

 江戸時代の死刑法であった斬首刑といえば、日本刀で罪人の首を一刀両断にするものであるが、人間の首は頭を支えるために硬い骨が集中しており、食道や脊髄など通っている。このため、一撃で斬り落とすのはきわめて高い技術を有していなければならない。戦国も終わって人を斬るという機会がほぼ無くなっていた江戸初期 において、その役割を担ったのが御様御用であったのだ。

 江戸初期には、多くの流派なども存在していたと言われており、山田浅右衛門以前には山野永久が6000人も斬ったと言われるほ どに有名であった。しかし、山野は子孫にその技量を継げる者がおらずその職を解かれてしまう。その山野の弟子として御様御用を願い出たのが、山田貞武( 初代山田浅右衛門)であった。

 因みに、浅右衛門の本職は御様御用であり、斬首はいわば副業的な扱いであった。浅右衛門は旗本や御家人ではなく最後まで浪人という立場であった そうだが、一説には幕臣になると公儀で定められた収入以外が認められなかっ たために浪人に甘んじたとも言われている( 家臣となる機会を逃してしまい浪人身分が固定されてしまったとい う説などもある)。

 山田浅右衛門は、初代貞武に始まり9代目吉亮まで続いてた。中には「朝右衛門」との表記で名乗っていた代もあり、当主が事情で役目を果たせない時は弟子が代行していたという。多くの弟子を有しており腕前が優れたものを後継ぎにしたと言われ ているが、これは首切の家業を実子に継がせたくないという親心があったので はないかとも言われている。全9代のうち、父子相続が成立したのは初代から2代目と7代目から8代目の2度だけであった。

 しかしながら、その技術は確かなものであったと言われており、「罪人の首に米を一粒置き、久米粒を真ん中で両断しながら斬首した」「雨が降る中、左手で傘を持ち右手だけで斬首した」などの逸話が残っている。また、その仕事柄において多くの人間とのつながりがあり、遠山景元、土方歳三、 勝海舟といった面々が刀剣の鑑定を依頼しており、橋本佐内、吉田松陰、大久保利通の暗殺犯、高橋お伝などが浅右衛門に斬首されている。

 浅右衛門の暮らしはかなり裕福であったと言われている。小大名並みの財力を有していたとも言われたその大きな理由は、ずばり「死体」の存在があったと言える。処刑された死体は浅右衛門の所有と認められていた。唯一人体の試し斬りが可能であった浅右衛門の元には全国から刀剣 と依頼料が届いたという。膨大な依頼件数に死体の数が間に合わず、 一度切り刻んだ死体を縫い合わせて再び切り刻んだこともあった。

 収入源はこれだけに留まらない。彼は、実際に自分の手で試し斬りをしたいという相手に死体を売り渡して おり、また死体の内臓や脳を原料として「山田丸」「人胆丸」という薬として売りさばいていた。 さらには死体の小指を斬り落として遊女の小指として贔屓の客に売 っていたという。これは当時、 遊女が客に真心を見せる為に自分の小指を切って送るという習わし があったことに起因しており、「遊女には小指が何本もある」「 切った小指が生えてくる」 という笑い話まで存在していたと言われている。一方で、 そうした莫大な収入は斬首した人々の供養に惜しみなく使われてお り、池袋の祥雲寺には刑死者の供養塔が現存している。

【文 黒蠍けいすけ】

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提供元・TOCANA

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