江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力であった大塩平八郎といえば、飢饉にあえぐ民衆を救うために大阪の豪商を襲って金銭や米を奪うという反乱「大塩平八郎の乱」(1837)を起こした人物として知られている。

 反乱は一日で鎮圧されてしまったものの、元与力が武装蜂起したという出来事は幕府などにも大きな影響を与え、その後に生田万の乱など各地での一揆や打ちこわしが相次ぐほどに波及していった。豪商が多く住むエリアに火をつけ1万世帯以上を焼き、しかも攻撃には爆薬まで使用していたという。

 鎮圧後、平八郎は養子の大塩格之助とおよそ40日間に渡り潜伏生活を送っていたが、女中の密告によって居場所が判明してしまい、逃亡の末に彼は爆薬を使用して自爆した。これによって平八郎は自殺したとされたが、発見された焼死体は黒焦げで顔も判別できない状態となっており、本当に平八郎のものであったかについては特定することができなかったという。これにより、大塩平八郎が実は生存しているという説が浮上するようになったのだ。乱のあと、磔刑を行なわなかったことも、生存説に拍車をかけたと言われている。

 この大塩平八郎生存説には、証拠として最も有力とされているものが存在している。大阪天王寺区にある龍淵寺には、大塩平八郎の乱に加担し、大塩父子の逃亡を助けた医師秋篠昭足(あきしのあきたり)の墓がある。そして、この墓には、おおむね次のような碑文が記されている。曰く、秋篠は大塩平八郎の乱のあとに同志12人と河内国に逃れ、大塩父子がその後天草島に潜伏、その後に清国へ渡ってさらにヨーロッパに渡った、という。

 平八郎生存説は、当時非常に流布された噂として多くの人々が知ることとなり、幕末まで続いたと言われている。中には、浦賀沖に現れたことで知られるアメリカの商船モリソン号に、彼が乗って攻め込んでくるといった流言までもが庶民の間で囁かれるまでになるほどであった。

“大塩平八郎”海外生存説!「大塩平八郎の乱」の後、生き延びてヨーロッパへ逃亡した?!
(画像=Created with DALL·E,『TOCANA』より 引用)

 また、乱以後、大阪、京都、江戸において平八郎の挑戦状が奉行所に届いたり、彼の署名のある貼り紙があちこちに貼られたりするなど、残党を名乗る人々が続出したことで幕府を揺さぶるという状況も起こっていた。ジャーナリスト宮武外骨の大正期の著作には、あまりに生存説が広まっていたために奉行所が一度埋めた大塩父子の遺体を掘り起こし、市中引き回しにしたという旨が記されているという。幕府にとって大塩平八郎生存説がいかに脅威であったかが窺い知れるだろう。

 なお、先述した秋篠の墓の碑文は、秋篠の娘婿で文部省国史編集官であった奥並継が、自身の義父が生前に語っていた言葉より撰文したものであるという。庶民を救う正義に燃え、為政者に反抗したという大塩平八郎に対する「生き残っていてほしい」という願望が、この説を強固なものに形成させていったのだろう。

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文=黒蠍けいすけ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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提供元・TOCANA

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