戦国の武将織田信長の家臣に、黒人がいたというのは有名な話である。弥助(やすけ)と呼ばれたその男については史料が非常に少なく、『信長公記』やキリシタン文書の中でわずかに登場するにとどまっており、生涯のほとんどが謎に包まれている存在でもある。

 1594年にイエズス会宣教師が日本にキリスト教をもたらして以来、ヨーロッパなどから「南蛮渡来の珍品」と呼ばれる数々の品が日本に運び込まれるようになった。1579年、イタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが長崎に上陸した際、黒人奴隷を連れていたのだが、この奴隷こそがのちの弥助であった。

 彼はヴァリニャーノらの宣教の旅に付き従う形で九州のキリシタン大名各地を訪問、その後、ヴァリニャーノが信長に謁見するため京都へ赴くこととなった。当時の記録によれば、身長は6尺2寸およそ180cmほどもあり、健康で力が強く10人を相手にしても勝てそうに見えたという。

 特に、彼を目にした信長は当初その黒い肌が塗られたものではないかと疑い、服を脱がせたり水浴びをさせたりしたという。結果的に、信長は彼の肌が着色されたものではないと認め、またヴァリニャーノにより献上品として差し出されたことに喜んだという。京都では彼の姿を一目見ようと人々が殺到し、それによって殴り合いの喧嘩まで発生したと言われている。

 信長のもとに召し抱えられることとなった彼は「弥助」という名を与えられたが、驚くべきことに武士としての待遇も与えられた。はじめは道具持ちに就かせていたが、その体格や力強さからボディーガードの役割も務めていたとされており、常に信長のそばに控えていたという。

 信長にとって弥助は非常にお気に入りであったようであり、わずか数ヶ月のうちに安土桃山城内で居所と使用人が与えられ、腰刀の帯刀も許されたという。

 しかし、1582年、本能寺の変が起こったことで彼の運命は大きく変わる。臆することなく奮戦した彼であったが、信長が横死してのち嫡男信忠のもとへ参じ、最後には明智軍に捕縛されたという。

 この時、明智光秀は弥助の処分について検討したが、「黒人は武士ではない、南蛮寺(教会)へ送れ」と命じたため、弥助は生き延びることとなった。そして、彼の記録はそこで途絶えてしまう。

 わずかに、1584年九州で起こった沖田畷の戦いにおいて、有馬勢の大砲部隊に黒人がいたという話がある。これを弥助ではないかと推測する説もあるが、当時の屏風絵などに幾人もの黒人の姿が確認できるということから、弥助以外の黒人ではないかとも言われており確証は得られていない。

 黒人の侍が存在していたという事実は、日本のみならず海外においてもインパクトを与えるものとなっている。それと同時に、はじめは物珍しさという動機であったとしてもその実力をハッキリと認め、相応の身分として仕えさせたという織田信長の人材登用の凄さにも目を見張るものがある。一説には、信長は彼をいずれ一国一城の主にしたいとも考えていたという。

【文 黒蠍けいすけ】

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提供元・TOCANA

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