岩崎弥太郎は、江戸から明治にかけて活躍した実業家であり、三菱財閥(現三菱グループ)の源流企業である日本郵船を創立した人物として知られている。近代実業の一大先駆者とされており、同じく実業家であった渋沢栄一とライバル関係にあったとしてたびたび引き合いに出されている。

 貧しいために郷土株を打って浪人となったいわゆる地下浪人の父のもとに長男として生まれた弥太郎は、幼い頃から激情家で負けず嫌いな性格だった。分家の同い年であった馬之助が、藩から学問で奨励されたことに対抗心を燃やしたことで、勉学に打ち込むようになっていったという。学問へののめり込みようは凄まじく、塾でも第一等の成績を得るほど優秀だったようだ。

 ところが、勉学の為に高知城下へ赴くも実家のいざこざで地元に呼び戻され、また狩猟による生活を経て義理の伯父である岡本寧浦(ねいほ)の塾へ再び出戻るも、今度は岡本が死去。勉学の機会をことごとく奪われる羽目になった。

 1855年、ある日父弥次郎が酒席で庄屋と喧嘩し投獄されてしまうこととなった。この時、庄屋側に何もおとがめがないことに憤慨した弥太郎は、奉行所の不正を訴える行動として、奉行所の壁に「官以賄賂成 獄因愛憎決」(官は賄賂を以て成し、獄は愛憎に因って決す)と落書きとしたのだ。結果この行動が罰せられることとなり、実に7ヶ月もの間勾留されることとなってしまった。

 しかし、この投獄がある意味で彼の一つの転機となった。入牢していた者の中に商人がいたことで、弥太郎は算術や商法を教えられるようになった。こうして弥太郎は、商人の世界に興味を抱くようになり、経済人として開眼したと言われている。

 出獄後、後藤象二郎や板垣退助などとの親交を持つようになった弥太郎であるが、中でも坂本龍馬との関わりは深かった。亀山社中を前身として龍馬が結成した「海援隊」という組織の会計を担当していたのが弥太郎であった。のちに、海援隊の船いろは丸と紀州藩の船明光丸の衝突事故が発生した際、後藤と竜馬そして弥太郎が賠償金の交渉にあたったという。一方で、金銭にルーズな隊士のことは毛嫌いしていたと言われている。

三菱財閥の源流を創設した実業家「岩崎弥太郎」の商人への目覚めは“牢獄”だった
(画像=岩崎弥太郎(1870年代頃) 画像は「Wikipedia」より,『TOCANA』より 引用)

 明治となり、弥太郎は九十九商会という海運業を行なう私商社の指揮者となり、のちに三菱商会と改名して個人企業となった。この当時、海運業の大手は態度が大きかったようであるが、三菱商会は店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対していたという。笑顔の苦手な者に対しては、小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導していたことから、弥太郎のビジネスに対する目の向け方は只ならぬものがあったことがわかる。

 また、日本で初めてボーナスを支給したのは弥太郎であると言われている。明治初期、英国のピー・アンド・オー社との価格競争が激化しており、三菱も徹底した経費削減によって抗戦を図った末、ピー・アンド・オー社が日本航路から撤退し勝利をおさめることとなった。これを社員の奮闘の賜物とした弥太郎が、各人の働きを上中下で査定し年末に賞与として支給することとなった。これが日本におけるボーナスの始まりだと言われている。

 海運業の覇権を握り巨万の富を得た弥太郎の功績は、江戸以来の商慣習を一新させたことによるものであると言われている。しかし、欧米の海上運輸独占に抵抗するなど単に儲けだけを追求した我利我利亡者ではなかったことは確かである。胃がんにより50歳で死去する直前には、蒸気船の運賃競争へも勝ち気で挑み続けており、その死に際には看病していた医師団に深々と一礼をした直後に事切れたという。商人として生きた彼の最期は武士の姿だったとも言えるだろう。

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文=黒蠍けいすけ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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提供元・TOCANA

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