江戸時代の警察の活動については、捕物帳をはじめとする時代劇でよく見られます。
しかし捕まった犯罪者のその後については、時代劇などではあまり取り上げられません。
果たして江戸時代の留置所は現代の留置所とどのように異なっていたのでしょうか?
また留置所の囚人はどのような生活を送っていたのでしょうか?
本記事では江戸時代の留置所の生活について取り上げつつ、その厳しさについて紹介していきます。
なおこの研究は、法律論叢67巻2-3号p383-426に詳細が書かれています。
目次
- 牢名主の天下だった江戸時代の留置所
- 名実ともに「命の蔓」であった賄賂
牢名主の天下だった江戸時代の留置所
江戸時代にて罪を犯して奉行所に捕まったものは、牢屋敷に収容されました。
なおこの牢屋敷が刑務所と見なされることもありますが、あくまで拘置所であり、奉行所の裁きが済んでいないものや死刑囚が収容されていたのです。
現在ではこういった場所で未決囚を監視し統制するのは拘置所の職員ですが、当時は牢名主と呼ばれている囚人が監視していました。
この牢名主は牢屋ごとに未決囚の中で才能があるものを奉行所の職員が選んで決めており、牢名主は奉行所の職員の監督のもと牢内の治安維持や病人の手当てを行うという制度だったのです。
また牢名主は自身の部下となるものを指名することができ、牢名主に指名されたものは牢役員として牢名主の補佐をしていました。
しかしこれは表向きの話であり、実際は牢名主の天下で、奉行所の職員の権限はあまりありませんでした。
具体的には牢名主は畳を10枚ほど重ねてその分を丸々自分のスペースとして使っていたのに対し、平の囚人は一畳に7~8人が寿司詰めになって使っていたのです。
当然寝る時も例外ではなく、牢名主は一畳丸々使ってゆったりとしたスペースで休息をとることができたのに対し、平の囚人は自分の足を延ばすのさえままならない状況で寝なければなりませんでした。
なおトイレも牢内にあり、とりわけ夜間のトイレは厳重に監視されていました。
夜間にトイレに行く場合は、2時間交代で寝ずの番をしている牢役人一人と平囚人二人にトイレに行く旨を伝えなければならないのです。
ここまで厳しくする理由としては衛生上の理由ももちろんあるものの、窮屈な姿勢で寝ている囚人が休憩目的でトイレに入ることを防ぐためでした。
もし夜間のトイレで粗相をしてしまった場合、翌日牢名主から折檻を受けることとなったのです。
また牢内には先述したようにトイレが牢内にあったことに加えて窓もなければ日光も入ってこなかったので、かなり衛生状態も悪く、病気も多発していました。
なお病気になった場合は溜(ため)という施設に移り、そこで治療を受けることができましたが、そこへ移ることができずに命を落とした囚人も数多くいたのです。
また親や主人を殺したものは、どれだけ体調が悪くなったとして、溜に移ることができませんでした。
さらに牢内に人員が増えすぎて生活に支障をきたすようになった場合、牢名主の主導のもと「作造り」という間引き(殺人)が行われました。
間引きの対象にはルールを破るものや差し入れが少ないもの、はたまたいびきがうるさいものが選ばれており、時にはそれらの理由がなくても間引きの対象となることがありました。
作造りに関して奉行所側は特に咎めることはなく、牢名主の「急病で死んだ」という届け出をそのまま受理したのです。
なお当然牢内は武器に使えそうなものは全くなかったということもあり、陰嚢蹴りでとどめを刺していました。
陰嚢蹴りで死ぬというのはイマイチ実感が湧きませんが、陰嚢を何度も蹴られると脳が混乱して交感神経が活発化し、意識を失ったりして命を起こすこともあるのです。