江戸時代は現在よりも出生率が多く、今よりも子だくさんの女性が多かったですが、中には望まない妊娠をする女性も多くいました。
果たして江戸時代の人はどうやって避妊や中絶を行っていたのでしょうか?
また現在の私たちとどのように子ども観が異なっていたのでしょうか?
本記事では江戸時代の人がどうやって避妊や中絶を行っていたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は了德寺大学研究紀要10号p. 77-86に詳細が書かれています。
梅干しで避妊、飛び降りて中絶
江戸時代はまだ衣料が未熟だったこともあり、効果的な避妊法がありませんでした。
しかしそれでも、様々な避妊方法が行われていたのです。
具体的には朔日丸(さくじつがん:月の第一日に服用すれば妊娠しないとされた丸薬)や天女丸(効能書きによると生理不順にも効くうえ,服用をやめればすぐに妊娠するという)といった飲み薬が用いられ、漢方やハーブなどが材料とされていました。
しかしこれらの薬は科学的根拠に乏しく、効果がないどころか水銀などが含まれていることもあり、健康に悪影響を及ぼすこともあったようです。
他にも鍼灸や膣洗浄、はたまた茎袋(現代のコンドームに相当)の使用が行われ、膣挿入薬として梅干や酢、ミョウバンが使われましたが、当然ながらこれらに効果はありませんでした。
そのためこの時代の避妊法は機能していたとは言い難く、結局中絶をすることが多かったのです。
中絶は江戸時代においもて一般的であり、堕胎医と呼ばれる専門の女医が存在したほどです。
彼女らは水銀と米粉を混ぜ合わせた中条丸と言われる薬や鬼灯の毒を使って中絶を行っていましたが、高額で一般庶民には手が届きませんでした。
そのようなこともあって庶民は、寒い冬に冷たい水に浸かって流産を試みる、腹部を圧迫する、高いところから飛び降りるといった力業で中絶を試みていたのです。
中絶と同じくらい行われた子殺し
またこの時代において、堕胎よりも出産後の間引きが母体にとっては安全な方法であったということもあり、農村部では、「嬰児殺し」(間引き)が広く行われていました。
間引きの方法には、直接的な手法として口に濡れ紙を当てたり、手で口をふさいだりする方法があり、ネグレクト的な手法として乳を与えずに放置する方法も存在しました。
間引く子供の選別においては、特に女子が対象とされ、当時の文学や教訓の中にもその実態が表れています。
江戸時代は男子の方が家の継承や労働力として期待されていたため、女子が捨てられるケースが多かったのです。
また、障害児に関しては、信仰やタブーが影響していた時代背景があり、共同体の生産性や災厄からの回避という観点から積極的に間引きされていました。