当然と思ってきたものを突然失うと、その価値が初めて分かることがある。「信教の自由」もその一つかもしれない。
「信教の自由」を失った体験をした旧ソ連・東欧共産圏の国民は冷戦時代、それを味わってきた。経験だけではなく、生命すら犠牲にしてきた。唯物思想のもと「宗教はアヘン」と呼ばれ、宗教を信じる国民は2等国民扱いを受けてきた。職業の選択や学業の道でもキリスト教信者と分かれば、さまざまな差別、迫害を甘受せざるを得なかった。
イザヤ・ベンダサン(山本七平の筆名)は「日本人は水と安全はタダと思っている」と少々皮肉を込めて語っていたが、「信教の自由」は決してタダではなく、それを獲得するために命がけの戦いが繰り広げられてきた。特に、共産主義国と民主主義国の両陣営が対峙してきた欧州での冷戦時代、旧ソ連・東欧共産党政権下では「信仰の自由」を獲得するために多くのキリスト者たちが犠牲となってきた歴史がある。
当方は冷戦時代、旧東欧共産圏を取材していたが、「信教の自由」、「宗教の自由」のために命がけで歩む人々を見聞きして、会見できる機会があった。ここで2件の出来事を報告する。
スロバキアで1988年3月25日、キリスト者たちの「信教の自由」を求めたロウソク集会が行われた。同国がチェコと連邦国だった時代だ。フサーク共産党政権下のチェコではヴァスラフ・ハベル氏ら知識人ら反体制活動家を中心とした政治運動が、スロバキアではキリスト者の「信教の自由」運動が民主化運動を主導していた時代だ。
スロバキアの首都ブラチスラバの民族劇場前でキリスト者たちの「信仰の自由」を要求したロウソク集会が開催された。同集会は治安部隊によって鎮圧され、多くの信者たちが拘束された。同時に、同集会を取材していた欧米ジャーナリストたちが逮捕されたこともあって、国際社会の関心を引いた。
同集会は後日、スロバキアの民主化運動に決定的な影響を与えた出来事と言われた。同集会を契機にスロバキアの民主化はもはや逆行できなくなっていった。
小雨が降る夕方、ブラチスラバの民族劇場前広場がデモ集会の開催地だった。開催前から私服警察官が広場にくる市民の動向に目を光らせていた。キリスト者たちがロウソクを灯して広場に集まりだすと、警察は放水車を駆り出して集まってきた市民を追い払い始めた。
筆者がカバンから素早くカメラを出してシャッターを切った時、背後から私服警官がカメラを奪い取り、筆者を警察の車両に連行した。国際記者証を出し、「報道関係者だ」といったが、私服警察官はその記者証を取り上げた。その後筆者はブラチスラバの中央警察署に連行され、釈放されるまで7時間余り尋問を受けた。警察署に連行された1人のキリスト信者が抗議したら、警察官がその青年の顔を壁に強くぶつけていたのを目撃した。
同集会開催30周年目の2018年3月、スロバキアの日刊紙「SME」編集記者ボリス・バンヤ氏(Boris Vanya)からEメールを受け取った。スロバキアの民主化運動に大きな影響を与えた同集会30年目の特集記事を書いているので筆者とインタビューしたいという内容だった。バンヤ記者は筆者がロウソク集会で現場取材中に治安部隊に拘束されたジャーナリストの1人だったことを知っていた。多分、警察側の資料から当方の名前を見つけ出したのだろう。
「SME」電子版にバンヤ記者の記事が掲載された。当時のロウソク集会の写真が掲載されていた。その写真を見ると、当時の状況を鮮明に思い出した。記事にはロウソク集会を取材し、拘束された外国メディアの名前が紹介されていた。BBC、ドイツの公営放送ARD、オーストリア国営放送(ORF)、米紙ニューヨーク・タイムズ、スイスのノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング、そして日本の世界日報となっていた。
チェコスロバキア共産政権下の最後の大統領、グスタフ・フサークの名前を覚えている人は少ないだろう。フサークは1968年8月にソ連軍を中心とした旧ワルシャワ条約軍がプラハに侵攻した「プラハの春」後の“正常化”のために、ソ連のブレジネフ書記長の支援を受けて共産党指導者として辣腕を振るった人物であり、チェコ国民ならばフサークの名前は苦い思いをなくしては思い出すことができない。
そのフサークが死の直前、1991年11月、ブラチスラバ病院の集中治療室のベッドに横たわっていた時、同国カトリック教会の司教によって懺悔と終油の秘跡を受け、キリスト者として回心した。その話が伝わると国民に大きな衝撃を与えた。