ウィーン生まれのユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクル(1905~1997年)についてこのコラム欄でも書いたばかりだが、一つ大切なエピソードを忘れていたので、ここで紹介することを許してほしい。
以下のエピソードはオーストリア国営放送(ORF)がウィーンの3人のユダヤ人精神科医について放映した番組の中でフランクル自身が語ったものだ(「3人のユダヤ人精神科医の『話』」2024年6月7日参考)。
時代はナチス・ドイツ軍がオーストリアに迫っていた時だ。フランクルは医者だったので、ナチス・ドイツ軍は彼に対し他のユダヤ人とは異なり、少しは融和的な扱いをしていた。フランクルのもとには「早く米国に逃げたらいい」というアドバイスとビザも届いていた。フランクルは亡命するべきか否かで悩んだ。自分が医者だからドイツ軍も自分の家族、父、母、妹たちを強制収容所送りをしないことを知っていたから、もし自分が亡命したならば、家族はどうなるかを考えていた。
フランクルが米国に亡命しない決意を固めたのには理由があった。家に置いてあった石について父に尋ねると、それは破壊されたウィーンのシナゴークの瓦礫から見つけた石の破片を父親が持ち帰ったものだった。そこにヘラブライ語の文字が刻まれていて、それはモーセの十戒の「あなたの父と母を敬え」の一節だった。
強く心打たれたフランクルは両親を残してアメリカに亡命することを止めてウィーンに残ることを決意したという。老齢になったフランクルは列車の中でインタビューでこの話をしながら涙ぐんでいた。
しかし、ドイツ軍は次第に、医者であろうと関係なく全てのユダヤ人を強制収容所に送り出した。その結果、フランクルは家族と共に強制収容所送りとなった。ドイツ軍が敗走し、収容所から解放されると、妻や両親の安否を尋ねたが、家族全員が殺されてしまったのを知った。
精神科医としてフランクルはナチス・ドイツ軍が侵攻する前から、精神科医として悩む人々の相談相手として歩んでいた。そのフランクルも収容所から解放された直後は、家族全てを失い、生きる意味、価値、喜びを無くして鬱に陥った。しかし精神科医として再び人々を助ける道に戻っていった。