ギネスブックによれば、 記録に確認できる最も多産であった女性は19世紀のとあるロシア人の夫人で、生涯に69人もの子どもを産んだと言われている。彼女は四つ子4組、三つ子7組、双子16組の計27回もの出産を経験し、生まれた子どものうち2人を除いてみな成人したと言われている。

 この記録は一人の女性が産んだ記録として残されているが、それと同時に夫である人物が作った子どもの数としても驚異的な記録だと言えるだろう。しかし、世界にはこれをはるかにしのぐ記録が存在している。17世紀後半から18世紀前半にかけてモロッコに君臨したアラウ ィー朝の君主ムーレイ・イスマーイール、彼はなんと生涯に1000人もの子どもを作ったと言われているのである。

 モロッコは、北アフリカ北西部に位置する立憲君主国であり、西は大西洋、北は地中海に面している。16世紀初頭から支配していたサアド朝時代、オスマン帝国との小競り合いが続いていたモロッコであるが、距離を取りつつもヨーロッパ各国との通商を通して、サハラ以南にも進出するなど繁栄を見せていった。

 だが、当時のマンスール王の死後に後継者争いや経済の停滞でサアド朝が衰退し始め、徐々に小勢力が乱立し戦国さながらの時代へ突入した。その際、ムーレイ・アル=ラシード率いるアラウィー家が頭角を現し始め、本来の後継者と目された兄弟を倒した末に、モロッコのイスラム勢力の代表者として即位、支配することとなった。このラシードを後押ししたのが弟ムーレイ・イスマーイールであり、彼は副王の立場を与えられ、のちに彼の協力もあってラシードはモロッコを統一した(1669)。 1672年にラシードが落馬によって死去、待ってましたとばかりにイスマーイールは王位を主張し始めた。 彼は10年近い年月を費やしモロッコを掌握、その間にモロッコを強国にするべく改革を進め、また各地への遠征や文化事業にも努め、忠節を誓う兵の育成やメクネスといった壮大な都城を建設するなど、最盛期とも言える時代を築き上げていった。

 さて、そのような彼の女性関係がどうだったかというと、正室に4人、側室に至ってはおよそ500人もいたと言われている。正室の一人には英国人、側室の中にはスペイン人やアイルランド人がおり、58歳となる1703年までには息子・娘合わせて計767人もの子どもがいたと言われている。

 記録上は生涯に888人の子どもを作ったことになっているそうだが、記録から漏れた数を考慮した場合は1000人を超えるとも言われ ている。この数に到達するためには、単純計算で1日0. 83回から1.43回の性交渉、また生殖周期を考慮すると65人から110人もの女性が必要であ ると言われている。一説には、 モンゴル帝国初代皇帝であるチンギス・ カンは1000人から2000人の子どもを産ませたとも言われて いるが、確実な記録が残っているという点からすれば、 イスマーイールが最も多くの子どもを作った人物となっているようだ。

 こうしたモロッコの最盛期を作り上げたイスマーイールであるが、一方で残虐な君主であったことでも知られている。このことは当時のヨーロッパ諸国でも非常に有名であり、怠け者と見なされた労働者や使用人を容易に斬首・拷問したとも伝わっていたという。他にも、機嫌が悪かったという理由で奴隷を斬首、使用人が持っている日傘がずれて若干日が当たってしまったことで処刑、といった逸話が多く残っている。一説には、20年間の治世でおよそ2万人もの人間を殺害したとも言われ、多くの著述家は彼を「血に飢えた怪物」と評していたのだとか。

 かたや多くの命を生み出し、かたや多くの命を奪う。それらを踏まえて彼の外交・内政の業績を鑑みると、 ある意味で非常に妥協の無い苛烈な君主であったことは間違いないだろう。

【参考記事・文献】
1000人以上の子供をつくった歴史上の人物とは?
千人の子供を持っていた血まみれの王

【文 ナオキ・コムロ】

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提供元・TOCANA

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