私は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『人間とは何か』(22年9月7日)という中で次のように述べたことがあります――人間としての成功あるいは真価は、棺に入って初めて問われるべきものです。棺桶に入る手前になって自問自答し、「まぁ自分の人生これで良かった。自分に課せられた天命をある程度自覚し、その達成に向けて世のため人のため努力をし頑張った」という思いで此の世を去れたなら、それは幸せなことでしょう。あるいは、残念ながら力及ばずして自分の天命を果たせなかった場合でも、その志を次代へと志念を共有している者に引き継ぎ世を去れたらば、それはそれでまた幸せなことでしょう。
仏教で言われる「相続心」というものが無いがため、殆どの志は頓挫してしまいます。『論語』にも「倦(う)むこと無かれ」(子路第十三の一)とあるように、「発心」「決心」した事柄は最後までやり遂げることが枢要です。志をきちっと持っていたならば次世代に引き継がれ、何処かの時点でその人の志が遂げられるかもしれません。此の世に生ある限り世のため人のためとなるよう志を立て、その志を遂げるべく私利私欲を捨て去り、唯ひたすらに努力し続けて、夫々の人が夫々の形で粉骨砕身生き行くべきだと思います。そうでなければ棺桶に入る時、何らかの後悔の念が生じるのではないでしょうか。
何れにせよ志でも夢でも思いであっても、その実現の成否は最終天の配剤でありますが、何も無ければ何ら起こるはずもなく可能性はゼロになり、況してや人間としての完成も有り得ないのです。「思いは実現する。人は自分が考えた通りの人生を歩む」――人生自分次第で変えられるところに良きところがあり、心を尽くし本来の自己を自覚し(尽心)、天から与えられた使命を知り(知命)、自己の運命を確立する(立命)という一連の人間革命の原理を実践し続けることです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年7月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。