大正時代は人気漫画「鬼滅の刃」の舞台になったこともあり、大きな注目を集めています。
そんな大正時代ですが、西洋料理が広く食べられるようになった時代としても知られています。
果たして西洋料理は、日本国内でどのように広がっていったのでしょうか?
本記事では開国後の日本での西洋料理の受容について取り上げつつ、どのような料理が実際に食べられていたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は、大阪国際大学紀要国際研究論叢18巻1号p89-100に詳細が書かれています。
目次
- 黒船と一緒に日本にやってきた西洋料理
- 西洋料理から日本独自の洋食へと進化する
黒船と一緒に日本にやってきた西洋料理
日本が幕末に開国すると、開港された港町には多くの外国人が訪れるようになりました。そうした場所にある料理店では、外国人向けに西洋料理を提供するようになったのです。
例えば長崎では外国人専用の西洋料理店が3店ほどあり、他の港町にも多くの西洋料理店が開店しました。
やがて時代が進むと港町以外にも西洋料理を食べられる店が増えていき、1868年(明治元年)には日本人が経営する初めての本格的な外国人専用ホテル「築地ホテル館」が開業し、そこではフランス人シェフがフランス料理を振舞っていました。
明治時代に入ると西洋料理店の数は増えていき、1900年ごろには東京だけで40件近くの西洋料理店があったのです。
しかしこういった料理店は日本を訪れている外国人向けのものということもあって価格は高く、西洋料理は一般庶民にあまりなじみのないものでした。
もちろん時代が進むにつれて日本人の中でも華族や富裕層などといった人々は西洋料理を味わうようになったものの、先述した事情から食習慣や味付けが外国人向けということもあり、あくまで異文化として扱われていたのです。
しかし、これらの西洋料理は大正時代に入って、一気に日本人好みにアレンジされていき、代表的な日本料理になっていくのです。
西洋料理から日本独自の洋食へと進化する
やがて大正時代になると、西洋料理をアレンジして日本風にした洋食が誕生しました。
またこの中でもカツレツ、コロッケ、カレーライスの3つは三大洋食として扱われており、当時から人気を博していました。
こうした洋食は、先述した西洋料理とは打って変わって、一般庶民にも広く人気を博しました。
これにはナイフやフォークといった西洋の食事器具ではなく箸で食べることができたことや、味付けが日本人の舌に合っていたことが理由であるとされています。
例えばカツレツは元々フランス料理のホールコトレッツ(豚の骨付き肉の炒め焼き)であっり、これは豚肉を使っているもののカツレツとはかなり異なっています。
しかし豚肉を炒めて焼くのではなく大量の油で揚げるという方式にし、刻んだキャベツを添えたりなどといったアレンジが加えられたカツレツが銀座の料理店で出されたことにより、カツレツが流行するようになりました。
このカツレツは肉を薄切り肉ではなく分厚い豚肉に変え、白米や味噌汁と共に提供されるなどといった更なるアレンジが加えられ、やがて豚カツに進化していったのです。
コロッケは元々フランス料理のクロケットであり、これは現在でいうクリームコロッケに近い存在でした。これがジャガイモを材料にした芋コロッケへとアレンジされ、やがて大正時代に大流行したのです。
カレーライスは元々イギリスで食べられていた西洋風カレーであり、もちろんそれはインドで食べられている本場のカレーとは異なっていました。
これも日本に伝わると別々の器に乗せる方式から白米の上にカレーをかけるスタイルへと変わり、洋食への仲間入りを果たしたのです。
これらの洋食は従来西洋料理が出されていた高級料理店ではなく、百貨店などの食堂などで出されたこともあり、多くの人々が気軽に味わうようになりました。
このように短い期間で西洋料理を取り込んでしまうあたり、日本食の柔軟性が窺えます。
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参考文献
大阪国際大学・大阪国際大学短期大学部リポジトリ (nii.ac.jp)
https://oiu.repo.nii.ac.jp/records/275
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。