「相手を変えるには」その必要性を相手に理解させる上でも千差万別で、誰に何を如何に如何なるシチュエーションで物言うかで違いますから、筋は通しつつもケースバイケースでの対応ということが大切だと思います。同時に、そもそも相手を変えるなど大それたことをする必要があるのかとも思います。また、人は何を言っても中々変わるものでもないというふうにも思います。率直に申し上げて、ある程度の年月そのスタイルでやってきた人を変えるのは、極めて難しいことでしょう。
結局人間というのは、自らが自らを築いて行く以外に道はなく、自らの意志で自らを鍛え修めて行く「自修の人」なのです。基本その人を変えることは誰にも出来ないことで、その人自身のみが自らを変えることしか出来ないのです。尤も、例えば『論語』でも「直(なお)きを挙げて諸(こ)れを枉(まが)れるに錯(お)けば、能く枉れる者をして直からしめん」(顔淵第十二の二十二)とあるように、「真っ直ぐな人、すなわち正しい人を引き立てて、曲がった人の上におけば、やがて下にいる曲がった人も真っ直ぐになる」ということもありましょう。
人を感化し人を動かす上では、感動・感激が大変重要な要素になります。相手方の自分に対する印象が変わり、そこに人が変わる可能性はあると思います。人は変えようとして変えられるものではありません。感化とは心から分かりましたということですから、暴力や権力を振るってみても感化にはなりません。その人が生きてきた間に身に付けた知恵や知識、あるいはその間なめた様々な辛酸といったものが、その人に力を与え人を感化するものになるのです。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」とは、山本五十六元帥の実に至言だと思います。自分自身の徳性の高さや全人格から醸し出される人間的魅力によって、相手方にある種の感情を起こさせることもあります。また、人間とは本質的に「敬と恥」の関係を常に有しているもので、それらより繋がる「憤」の気持ちも人を変え得るでしょう。
「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」(『論語』)、「大人(たいじん)なる者あり。己を正しくして、而(しこう)して、物正しき者なり」(『孟子』)――自分を正しくしてさえいれば、その至誠の徳は全ての者を感化して行きます。人たるもの、主体性をきちんと持たねばなりません。全ては身を修めようとする覚悟から出発し、自分自身を確立し、人を感化して行くのです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年6月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。