私は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『哲学というもの』という中で次のように述べました――宋の朱新仲が唱え実践した「人生の五計」、「生計…いかに生くべきか/身計…いかに社会に対処していくべきか/家計…いかに家庭を営んでいくべきか/老計…いかに年をとるべきか/死計…いかに死すべきか」、の最後は老計と死計です。「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない」とは曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉ですが、人間死すべき存在であり何時死ぬか分からぬが故、生を大事にしなければならず、我々は死の覚悟を以て生ある間今ここに、後世に何を残すかということを真剣に考えて行かねばなりません。(中略)司馬遼太郎の『峠』という小説の中に、「志ほど、世に溶けやすく壊れやすく砕けやすいものはない」とありますが、だからこそ世のため人のため一度志を定めたならば、それを生涯貫き通すと決死の覚悟をし、永生を遂げるのです。

江戸期の臨済宗僧侶で正受老人(しょうじゅろうじん)の名で知られる、道鏡慧端(どうきょうえたん、1642年-1721年)禅師の言に「一大事とは今日只今の心なり」とあります。人間、明日死ぬやも分からぬ中で「今ここに」が大事であり、その時いかなる心根(こころね)でいるかが結局において大事だということです。此の死生観を少し難しい言葉で表現しますと、「絶対的価値を永遠に残すべく今何を為すべきか?」となります。之に関し、安岡正篤著『日本精神の研究』(致知出版社)に次の通り記されています。