今年はプラハ生まれのユダヤ人作家フランツ・カフカ(1883~1924年)の没後100年目だ。世界各地で様々な特集やイベントが行われている。
カフカは40歳で結核で亡くなったが、3人の妹ら家族は後日、強制収容所送りになって、そこで全員が亡くなった。カフカはナチス・ドイツが侵攻する前に病死したので、ナチス・ドイツ軍の蛮行の直接の犠牲とはならなかった。カフカが強制収容所送りを体験しなかったことは、カフカ自身にとって幸せだったのかもしれない。
カフカの友人、ユダヤ人作家マックス・ブロート(1884~1968年)はドイツ軍が西側行きの列車を閉鎖する直前、最後の列車に乗ることが出来て西側に亡命した。ブロートがナチス・ドイツ軍に拘束され、強制収容所送りになっていたならば、「審判」「変身」「城」といったカフカ作品は世に出ることがなかっただろう。
カフカは生前、自身の作品をほとんど公表していない。カフカの作品の価値を理解していた友人ブロートはカフカの原文を鞄に詰めて国境を出ることが出来たわけだ。オーストリア国営放送(ORF)はカフカ没後100年を祝って6回のシリーズでTV映画を放映したが、ブロートがドイツの国境警察に鞄を開けさせられ尋問される場面があった。カフカ文学の運命の瞬間だったわけだ。
第二次世界大戦中、杉原千畝氏は日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給した話は有名だ。ドイツ軍の侵攻前に亡命で来たユダヤ人、亡命が遅れたたために強制収容所送りになったユダヤ人など、様々な運命があった。
7日のコラムでも紹介したが、精神分析学のパイオニアのジークムント・フロイト(1856~1939年)、アルフレット・アドラー(1870~1937年)はナチス・ドイツがオーストリアに侵攻する前にロンドンや米国に亡命できた。一方、ヴィクトール・フランクル(1905~1997年)は家族と共に強制収容所送りになった。収容所から解放された直後、妻や母、姉妹たちが全て殺されたことを知って絶望し、一時期生きる力を無くして鬱に陥ったといわれる。フランクルは鬱を乗り越え、「それでも人生にイエスと言う」という本を出している。