今回は、アメリカの歴史の8回目です。
- ハミルトン体制の構築と第一次政党制
ワシントン政権発足以降、初代財務長官ハミルトンは、経済発展のためには、保護主義的な政策や経済環境の整備が必要として、体系的な経済・財政政策を打ち出します。
「公信用に関する報告」では、独立戦争中に積み上がった膨大の債務のうち、各州の債務も連邦政府が肩代わりして償還し、その支払のために新たに国債を発行するとしました。しかし、すでに償還の終了している州に不公平などから、マディソンは反対します。
また、ハミルトンは、第一合衆国銀行の設立を提案します。これは違憲の疑いがあるとして「合衆国憲法の父」マディソンらが反対したが、設立は決まりました。
助成金などによる産業育成政策をハミルトンは提案しましたが、助成金は汚職の温床になるとして、ジェファソンやマディソンが反対し、より効率の関税が産業保護政策として採用されました。
1892年、鋳貨法が成立し、「ドル」が通貨単位となります。
第一次政党制では、ハミルトンの政策に賛成派は連邦派(フェデラリスト)で北部に多く、ハミルトンの政策に反対派は共和派(リパブリカン)で南部に多かったそうです。
第一次政党制
連邦派(フェデラリスト):ハミルトンの政策に賛成。北部。
共和派(リパブリカン) :ハミルトンの政策に反対。南部。 - フランス革命とアメリカ
1789年7月14日、フランスでバスティーユ監獄が襲撃されフランス革命がおこります。
このフランス革命を発端とするヨーロッパでの戦争に対するアメリカの姿勢が議論となると、アメリカの党派対立が激しくなります。
ヨーロッパ諸国が対仏大同盟を結成して戦争に向かう中、ワシントンは1793年に中立を宣言します。
これに反発したイギリスがアメリカ船を拿捕してアメリカの貿易を妨害し、翌年に米英間でジェイ条約が締結されます。
しかし、この条約はイギリスに妥協的だとして、アメリカの共和派は激しく非難しました。
1796年、ワシントンは「告別演説(告別の辞)」で三期目に出馬しないことを国民に発表するとともに、党派対立の回避を呼びかけました。
また、当時のヨーロッパの騒乱から距離を置くように説いて、「孤立主義」外交の源流ともなります。
同年の大統領選挙で、連邦派のジョン・アダムズが一位、共和派のジェファソンが二位になり、それぞれ大統領・副大統領になりました。
フランスでは、ロベスピエール処刑後に1795年に成立したフランス総裁政府はジェイ条約に反発し、米仏間の関係は悪化します。
フランスはアメリカの商船を拿捕し、宣戦布告のないまま米仏は戦争状態に突入し1800年まで続きました。
1800年にナポレオンのフランスと条約が結ばれ、アメリカは中立国としての権利が保障されました。